2018年5月31日木曜日

母 最期の日々 ⑧ キノホルム

人工呼吸器をつけるかどうかすぐ決めてください、と面倒そうに言った医者の顔と声が今でも忘れられない。



そこには死の間際にいる家族を持つ人間に対する、憐憫の気持ちはまるでないようだった。



過労状態の医者が疲労の極限状態にいることはわかる。



が、その医者にとってはただ一人の高齢の患者である母も、私と姉と父にとってかけがいのない生身の人間、家族なのだ。



それを何の前置きもなく『人工呼吸器をつけるかどうか早く決めろよ、めんどくさいな。』という声音で言われたことが、その後も長い間許せないと思った。



姉も私も周囲の人たちからよく言われた。



なんで親のためにそこまでするの?と。




母が単に年をとって介護が必要になっていたら、そこまでしなかったかもしれない。



が、母は薬害で38歳で寝たきりになったのだ。



キノホルムというヨーロッパでは劇薬として扱われたいたのに、日本では厚生省の都合で認可されていた薬だった。



整腸剤として処方されていたキノホルム。



母はその頃毎日朝から晩まで働いていた。



不調のせいで仕事を休むという選択肢のなかった母は、医者から処方されたキノホルムをせっせと飲んだ。



その上不安神経症の父がうるさく言う。



飲まないともっと具合が悪くなる。



ちゃんと飲め。




少しずつ具合が悪くなっていく母を私は不安な気持ちで見守った。



12歳だった私は、毎朝起きた時、母が使う包丁のトントンという音が響いているとホッとしたものだ。



製薬会社は医者にキノホルムをもっともっと、と使わせた。



医者は母に(そして他の1万人以上の患者に)国が認めていた処方すべき量の5倍(他の患者の処方量は知らないが)のキノホルムを処方した。



母は日に日に弱っていった。




が、こんな時ですら母は明るかった。



病院の3階に入院していた母が私に言う。



『なんかもう毎日どんどん具合が悪くなっていくから、昨日なんか死にたくなったのよ。


で、トイレの窓から飛び降りようかなと思って下を見たら、サボテンがあったの。


あそこに落ちたら痛いだろうなと思ったからやめたわよ。』と笑う。




私はまだまだ子供だったのだ。



母があまりに明るい口調で言うから、大したことはないんだろう、と思っていた。



母は多分すぐ退院して家に帰ってくるのだろう、また元通りの日々が戻ってくるのだろう、と。



しかし、母の状態はどんどん悪くなっていく。




娘を心配した祖母が訪ねて来た。



そして祖母が去ったあと、赤い洋服を着た私を見て、母は言った。



『あらぁ、おばあちゃんに着物を買ってもらったの?』



いつものようにのんびりした口調で言う母を、私は笑った。



洋服を着ているのに、なんで母は私が着物を着ていると思うのだろう。



母はほとんど失明していたのだ。

2018年5月29日火曜日

母 最期の日々 ⑦ 人工呼吸器

集中治療室ではオルゴールの音楽がいつもかかっていた。



このオルゴール音楽を一生聞きたくなくなるだろうな、とぼんやりと考えながら母の隣に座っていた。



F本さんを何故あの時もっと早く止めなかったのだろう、という後悔と、母の真っ白になった顔と宙をかいていた両手がずっと頭から離れない。



姉がコンビニでおにぎりを買ってきてくれたが、姉も私も全く食欲がない。



胃が何も受け付けない。



母は42年前に病院で処方された薬を飲んで、下半身不随になり失明した。



その母がまた医療ミスによって死んでしまうのか。



しかも主治医はそれを認めない。



こんなことはよくあることなんです、と言われて納得できるわけがない。



そもそも高齢者の命を軽く見ているのではないか。



母はやっと少しずつ回復し始めて、いつかまたアイスクリームを食べようと私が言った時、目に光が灯ったのに。



主治医に今後の見通しを聞いた。



答えは『大丈夫です。これからまた少しずつ回復していきます。』という返事だ。



母に生きていてほしい、ととにかくその気持ちしかなかった。



これで死んでしまったら母がかわいそう過ぎる。



その時F本さんが入ってきて母のバイタルを測ろうとした。



私は言った。『すみません。他の看護師さんに代わっていただけませんか。』



すぐに他の看護師さんが来てバイタルを調べて、大丈夫ですね、と明るく告げて出て行った。



が、その後婦長さんが部屋に入って来た。



F本のことですが、何か不都合がありましたでしょうか、と聞かれ痰吸引の時の出来事を告げた。



婦長さんの顔色がサッと変わり、『わかりました。そんなことがあったとは知りませんでした。何かあれば私にすぐ言ってください。』と私の目をじっと見ながら言ってくれた。



その物言いたげな目には『自分はあなたの味方ですよ。』という気持ちが表れていて、心強かった。



この頃姉は仕事を休んで、ずっと私と一緒に母の横にいたが、父は一日に2時間ほどベッド脇に座ってまたひたすら本を母に読み聞かせていた。



父はまだ認知症のごく初期で自分でタクシーに乗って自宅と病院を往復し、食事は自宅に配達されるお弁当を食べていた。



その夜、主治医ではない他の医者から『カンフェレンスルームに来てください。』と言われた。



姉と私が小さな部屋に入ると、自分は疲れているんだ、なんで患者の家族に説明しないといけないのか、という面倒でたまらなそうな声で前置きもなく開口一番こう言った。



『人工呼吸器をつけるかどうかすぐ決めてください。』




頭の中が真っ白になった。

9ヶ月だった長男を抱く55歳の母
孫を見たかっただろうなあ、と今なら私も母の気持ちがわかる

2018年5月27日日曜日

物忘れ

最近自分の物忘れが怖いと感じることが多くなった。昔はスーパーに行くにも買い物リストなんかいらなかったが、最近は買うものが3つになると覚えていられない。

それどころか、パソコンで何か検索しようと蓋を開けた5秒後には『検索しようとしていたのは何だった?』と思い出せない。お風呂のあとXXをしようと思っていても、忘れてしまう。父も祖父もアルツハイマー病にかかっていたので、遺伝的に私もアルツハイマーになる可能性はある。清水の女医さんR子さんと一緒に海鮮丼を食べた時、検査をしておいたら?と勧められた。そのうち受けようと思っている。

今週は姑、義妹がサンフランシスコのマンションに1週間近く滞在していた。ヒロに会いに来てくれたのだ。


サンフランシスコのジャパンタウンに数年ぶりに行ったが
過疎化した商店街で重苦しい気分になった

何故かこの人には『義母』という言葉が似合わない。意地悪ではないが活力に溢れた人で大声で話し豪快に笑う85歳だ。

そして一気に年を取った。

去年の10月に会った時はどこにでも早足で歩いて行き、朝起きると必ず30分エクササイズをしていたのに、今は歩くと翌日疲れが残る、毎日していたエクササイズも週1、と座っていることが多くなった。

が、頭は冴えている。座っている時もiPadでゲームをしている。スドクかキャンディ何とか(名前を忘れた)というゲームで遊んでいるのだ。62歳の長男夫婦と同居し毎日食事の支度をしている。ボケないはずだ。

私も85歳の時に姑のように元気で頭も冴えていればいいなと思う。が、今の私の物忘れが激しい状態では無理だろう。

座っている時も足首のエクササイズをしている
髪も真っ黒

すると姑が言った。『私も50代の頃物忘れが激しくて怖くなったことがあったよ。』と。姑の話を聞いてなんとなく希望が持てるようになった。そうか、ここまで恐ろしい物忘れのあった姑でも、30年後まだこんなにシャープなのだ。私も大丈夫かもしれない。
 
姑の30年前の物忘れの話はこうだ。

ある日キッチンにあるカレンダーが目に入った。カレンダーに書き込んでいる予定を見ていると、大変なことに気がついた。なんと3日前にお医者さんの予約があったのに、行くのを忘れてしまっていた。

すぐお医者さんのオフィスに恐縮しながら電話した。

『I'm so sorry. I had an appointment 3 days ago but forgot! I'm sorry. I'm sorry.( すみません。3日前に予約があったのに忘れていました。すみません。すみません!)』

電話の向こうで受付の人が姑に言った。

YOU CAME.

2018年5月22日火曜日

母 最期の日々 番外 ばば

私の息子たちは母のことを『ばば』と呼んでいた。



父のことは『じじ』だ。



両親とも自分がばば、じじと初めて呼ばれた時にとても喜んでいた。




私は孫が生まれても自分をどう呼ばせるか迷っていた。



ヒロより2ヶ月前に生まれた孫のいる友人Y(現在63歳)は『絶対おばあちゃんなんて呼ばせない。なーなと呼ばせるの。』と鼻息荒く言う。



アメリカではグランマと呼ばれるのがいやで、ナナと呼ばせる人が多い。



この友人は今、孫に会うために東海岸に行っている。



もう超かわいくてメロメロ、というメールが来た。



『しっかりばあばを楽しんで来てね』という私へのメールには『なーなを楽しんでいます。』とすぐ返信が来る。



そうか、彼女にばあば、おばあちゃんという言葉は禁句だったな、と思い出す。



友人M(61歳)にも近いうちに孫が生まれる。



孫にどう呼ばせる?と聞くと『まだ決めてない。でもおばあちゃんだけは絶対イヤ。なんだか年寄りっぽいじゃない。』ということだ。



そうだよなあ。



立派におばあちゃんの年齢になっているにもかかわらず、おばあちゃんと呼ばれることはなんとなく抵抗がある。



ヒロはもう歩き始める寸前で、マンマなどの喃語も出始めている。急がねば。



やっぱりナナ?



いや、おばあちゃんと呼ばせるのがかえって潔い気もする。



よし、私の母のことを息子たちがずっと思い出すためにも、私の呼び名は一つしかないだろう。

カッコいい?『ばば』を目指そう

2018年5月21日月曜日

母 最期の日々 ⑥ 呼吸が止まる

9月20日の朝、F本さんが母の痰吸引をするために病室に入ってきた。



F本さんは18歳ぐらいにしか見えないあどけない顔のスタッフで、看護師さんだったのかどうかはわからない。



吸引を始めようとしたがチューブがうまく入らない。



強引に母の気道にチューブを差しこもうとするF本さんを、私はハラハラしながら見つめた。



母が呼吸できなくなったのがわかった。



母の両手が宙をかく。



『やめてください!!』と私は叫んだ。



びっくりした表情で私を見るF本さんに私は声を上げた。



『息ができないじゃないですか!』



不満そうにチューブを抜いたF本さんが、母を見た途端青ざめた。



母の顔色は紙のように白くなっていた。



呼吸が止まっていたのだ。




F本さんがベルを鳴らし、ガラガラとワゴンを持った数人の看護師、医師が入室して私に廊下で待つように促す。



私はガタガタと震えながら姉に電話した。



母が呼吸をしていない。



母が死ぬ。母が・・・



医者の措置により蘇生した母はもう一度呼吸し始めたが、そのまま集中治療室に運ばれて行った。



その後、主治医が廊下で私に告げた。



母は肺炎の状態になっている、今後は肺炎の治療をしないといけない。



『それは今朝の吸引の失敗が原因なのではないですか。母は回復し始めていましたよね?そろそろ胃瘻の手術をして、療養型病棟のある病院に転院する予定だったではないですか。』と私は言った。



が、主治医は否定した。



『こういうことはよく起きるんです。回復していたと思っていても、なにしろ高齢の方です。突然こういう状態になることもあるんです。』



当然納得できない答えだったが、今ここで議論をしても病院側が認めるわけがない。



これは後日話すことにして、今は母の肺炎に対処するしかない。


暗い暗い思い出なのに、高速道路を運転していると
何故かいつも母の最期の日々を思い出す

2018年5月20日日曜日

母 最期の日々 ⑤ 胃瘻

9月14日、父がその後ずっと主治医として通うことになる森先生の診察を初めて受けた。



最初に電話をしてから4ヶ月待ったあとだ。



名医と評判の森先生の診察を受けたくて、全国から患者が集まる。



ヘルパーさんに母の見守りを頼んで、姉、私、当時のケアマネT田さんと森先生の診察を待つ。



待ち時間はなんと5時間だった。



ケアマネのT田さんは子供の具合が悪いので、と途中で帰ってしまった。



診察の結果、父の認知症はまだ深刻な段階ではないとわかって、姉と私は少し希望を持ち始めることができた。



が、同じ頃、母の主治医からは胃瘻を勧められた。



嚥下訓練が全く進まないのだ。



言語療法士さんは母の唇を湿らせながら、『喉が乾いてはるやろに、お水飲ませてあげられへんでごめんね〜。』と言いながら訓練を続けてくれた。


ある日一滴のお水が母の舌の上に垂らされた時、母は初めて積極的にそれを飲み込もうとしていた。



母が生きる気力を持ち始めたようで嬉しかった。



でも、それ以上のお水を飲むことは無理だ。



母は本当にお水を渇望しているように見えた。



なのに飲めない。



ほとんど表情のない母が、お水だけはほしそうにしている姿がかわいそうでたまらなかった。



口から食べ物を摂取できないのだから、胃瘻しかない。



姉も私も胃瘻の手術を受けることには反対だった。



が、他に選択肢はないのだ。



そして胃瘻を始めると母の自宅介護は無理になる。



転院先を探さねばならない。



姉と二人であちこちの病院のサイトを調べて訪問した。



そのうちの一つS病院を訪問した時、一目見て私も姉も『ここだ!』と思った。



母が入ることになる部屋は広くて、明るい日差しが燦々と降り注いでいる。



この中には、母の車椅子も私たちが座るソファも入れることができる。



個室だがどうにか支払いもできそうだ。



調べてみると胃瘻を始めたからと言って、リハビリを続けて母が嚥下機能を少しでも回復すればデザートぐらいは食べても良いという記事があった。



そうか、ではそんなに悲観することもないのか。



母にS病院の個室の話をした。



S病院でリハビリを続けて、胃瘻をしなくてよくなったらまた家に帰れる。



家でアイスクリームを食べられるようになるかもしれないよ、と私が言うと母の目が久しぶりにキラキラと輝いた。



父の方もとりあえず深刻な状態ではないし、母の介護も快適な病室で続けることができそうだ。



姉と私は久しぶりに幸福な気持ちになることができた。


清潔でとてもきれいなS病院
久しぶりに希望が持てたのに


が、その2日後に全てが暗転する出来事が起きた。


2018年5月19日土曜日

母 最期の日々 ④ リハビリが始まる

母が入院していたT病院はいつも混んでいた。



たくさんの団地に囲まれている人口密度の高い地域なのと、地下鉄駅に隣接しているということで待合室は常に人であふれていた。



ここに以前母は一度入院したことがあったが、スタッフのお粗末さに辟易して、二度と入院させたくないと思っていた病院だ。



が、救急車が母を運んだのはこのT病院だった。



集中治療室を出る日が来た。



前回の脳梗塞の時は、3日後に『おうどんが食べたい』と言うほど復活した母も、今回は劇的な回復は見込めないのがわかっていた。



何よりも閉じたままの右目が母の深刻な状態を物語っている。



水分は一滴も受け付けない。



でも少なくとも母は今回も生き延びることができたのだ。



まずはそれで充分だ。




今後は大部屋に移り言語療法士によるリハビリを始めます、という説明があった。



リハビリは、またしゃべることができるようになることが目的ではない。



生きるためのリハビリなのだ。



まずはお水を一滴飲むことができるように訓練を始めないといけない。



が、大部屋は困る。



家族が交代で泊まり込むことができない。



母は微かに意思表示ができるようになってきて、足を動かしてほしい時は少しだけ右手を動かす。



表情はあまりないが、時々ほんのちょっとした感情の動きが目に現れるようになった。



では、と病院が提案してくれる。



二人部屋はどうですか?



二人部屋ですが一人が入っていただいて、空きのベッドはご家族が休息をとるために使っていただいていいですよ。



ただ二人部屋を一人で使うということで、ベッド差額は倍になりますが。



T病院のベッド差額は一日4200円だ。



それまで他の病院ではいつも個室の差額が1万円以上かかっていたので、これはびっくりするほど安い金額だと言える。



二人部屋に移ってからは、母に付き添うのが少し楽になった。



母の感情の動きや要求は、家族にしかわからないものだったが、状態が少しずつながら良くなってきていることに姉と私は安堵した。


向かいにあるコンビニで買ってきた物を食べながら、毎日母のベッド脇でペチャクチャしゃべり続けた。



リハビリはなかなか思うように進んで行かなかったが、私たちは久しぶりにとてもポジティブな気持ちになることができた。



今まで家で介護をしていた時、母を1分も一人にすることはできなかったのに、今はコンビニに行ったりする時間ができた。



母には悪いが、私たちには少しだけ息抜きをする時間ができたのだ。



母を車椅子に移動させてシーツを替えたり、夜中も15分おきに起こされることもなくなったのだ。(母は数時間まとまって寝てくれることもあったが、15分おきに起きて咳き込んだりすることもあって、家族は長年睡眠不足の状態だった。)



母の状態はかわいそうだったが、これから少しずつ回復できるかもしれないし、私たちには休む時間ができたのだ。



なんだか光が見えるようになってきた。

少なくとも母に関しては、だったが・・・

2018年5月18日金曜日

母 最期の日々 ③ 思慕

その朝私は川べりを日傘をさして歩いていた。



2010年の京都は、9月になっても連日35度を超える日が続いていた。



T病院は地下鉄駅に隣接していたが、病室に一旦入ったら一日座っていることになる。



実家から病院までかなり歩くことになるが、今日は歩いてみようと思った。




川の向こう側に母が何度も入院したことのあるR病院が見えてきた。



あの病院に前回脳梗塞を起こして入院したのはいつだったのか。



確か5年ほど前?と考えた。



あの時と今回は全然違う。



あの時はすぐ回復できるのがわかったが、今回はもうダメなんじゃないだろうか。



夜も寝かせてくれない母、昼間もずっと付き添っていないといけない母、中学生、高校生の息子たちを残して日米往復を余儀なくさせられた介護。



苦しかった介護だが、私は母のための介護していたのだろうか。



違う。



義務感のみの介護だったのだ。



1ヶ月間日本で介護をすれば、またアメリカに帰れる。



帰ったらゆっくりできる。



母にはたまに電話してあげればいい、と思っていたのだ。




母が何をしたのだ。



母は本当にいい人だった。



なのに薬害で38歳で寝たきりになり、それでも明るくポジティブに生きてきた。



今は右目を開けることもできず、意思表示すらできない。



数ヶ月前に作ってもらった車椅子
もっと早く作ってもらえば良かった



母への圧倒的な思慕が胸の中で膨れ上がってくる。



今すぐ母のベッド脇に行って、ずっとずっとそばにいてあげたい。



母に生きていてほしい。



母は私の母なのだ。



母なんだ。



母はこの世で一人しかいないのだ。



今までごめん!母のことを義務感だけで介護してごめん!と涙が止まらなくなった。




日傘をたたんだ。



病院まで必死で走った。




母に今すぐ会いたい。

2018年5月17日木曜日

母 最期の日々 ② 脳幹出血

8月30日の夜オンラインで関空行きの飛行機に変更できた。



そして姉からメールが届き、母は意識が戻ったと書いてある。



良かった。



また母に会えるのだ。



翌朝出発し、9月1日の夕方母が入院しているT病院に着いた。




母は別人になっていた。

脳幹出血を起こした母は、右目が開かなくなっていた。



表情がなくなってしまい、私の声に少し反応を示すが以前の母ではない。



家族の声に反応した母は頬を少し動かす。



母が何かを考えているのか、そもそも家族がそばにいるとわかっているのか。



私たちの声が聞こえてはいるようだが、理解しているのかどうかもわからない。




この年の2月に、父の物忘れが尋常ではないと気がついた。



父自身不安に感じていたようだ。



一日中何かがないと探している。



5月にO病院の物忘れ外来に行き、認知症だろうと診断されたが、O病院の医者に不信感を持った姉と私はR病院の森先生に診察してほしいと思っていた。



そしてちょうどこの頃R病院から連絡があり、父の初診予約が取れたところだった。



父も母も壊れ始めているようだ。



これから一体どうなるのだろう。




父は母が脳幹出血を起こしたその日まで、その年直木賞を受賞した『小さなおうち』を毎日読み聞かせていた。



父も母もこの小説の時代設定に共感することが多かったらしく、母も毎日父が読んでくれるのを楽しみにしていた。



母が入院してからも父は毎日タクシーでT病院に行き、ベッドの横に座って続きを読んだ。



が、もう母はこの本に何の反応も示さなかった。



脳幹出血により大脳基底核の細胞に後遺症が残り、ドーパミンが減ってしまった状態で、脳からの指令が伝わらなかくなってしまったということだ。



ということはドーパミンがないから、身体に障害が残っただけではなく、感情面でも母は変化してしまったのか。



少しずつ回復する可能性はあるとは言われたが、そう思えないほど母は違う人になってしまっていた。



母の心の中では何かを考えているのか、それとも家族に対して記憶も興味も失ってしまったのか、それさえもわからない。



それが悲しかった。




母が脳出血を起こした前日頭痛を訴えていたのに、酷暑の介護で疲れ切っていた姉は母の血圧を測らなかった。


そのことを姉が後悔し続けたように、私も父や姉を助けずに帰国してしまったことを後悔し続けた。


 意外にも淡々としていた父
いつでもどこでも自分の世界

2018年5月11日金曜日

母 最期の日々 ① パスポート

Mrs. xxxx was admitted in our hospital on August 30, 2010 with a hemorrhagic stroke and she is in critical condition.


(⚪︎⚪︎さんは8月30日、脳出血で入院し重体です。)と書かれた診断書、申請書類、写真、飛行機の予約確認書を持って、サンフランシスコのパスポート申請窓口に着いた。



カリフォルニアの8月30日午前9時半を過ぎていた。



翌日の飛行機の予約は関空行きが取れないので、成田行きをとりあえず取った。



翌朝サンフランシスコ空港に行き、そこで関空行きに変更するためにスタンバイするしかない。



最悪成田に飛んでもいい。



日本にさえ着けばどうにでもなる。



前日これらの書類をFaxで送り、緊急のパスポートを申請する資格があるのかどうか審議された。



そしてこの日の朝電話がかかってきて、すぐ申請に来てくださいと言われたのだった。



慌てて洋服を着替えてすぐ車に乗り、サンフランシスコの申請所まで急いだ。



緊急でパスポートを取りたい人なんて殆どいないだろう、と思っていたがそれは甘かった。



申請所に着くと行列ができている。



どの人も緊急でパスポートを発行してもらいに来ているのだ。



私の番が来て窓口の係に説明する。



アメリカ市民になったところです。



パスポートの申請書類を一昨日送ったところだから、アメリカに帰化した書類はオリジナルを持っていません。



でもコピーはここにあります。




だが、窓口の係員は言った。



オリジナルじゃない書類は受け付けられません。



だから移民局に行って帰化したという証明書をとってください。



証明書を取ったら、もう一度この窓口に帰ってきてください。



ただ、この窓口は12時には閉まります。



それをすぎたらもう今日の申請は受け付けません。




その時点でもう10時半頃だった。



駐車場に停めていた車まで戻る時間が惜しい。



仕事を休んで一緒に来てくれていた夫と走った。




祈るような気持ちで道に出ると、ちょうどタクシーが来て目の前で停まり、乗客が降りた。



すぐに乗り込んで渋滞のサンフランシスコの街を走る。



移民局に着いた。



果たして私が帰化したという証明書はすぐに発行してくれるのだろうか。



ドキドキする。



また何か他の書類が必要だと言われるのではなかろうか。



言われた。



が、今になってはどういう手続きが他に必要と言われたのかは、もう覚えていない。



静かな場所に移動して手続きのための電話をして、どうにか確認が取れた。



そして帰化証明書は無事発行された。



またタクシーで申請所に向かう。



移民局で思ったよりも時間がかかったので、着いたのはギリギリセーフの12時前だった。



そしてその日私の初めてのアメリカのパスポートが発行された。



ひたすら母が恋しかった。


いつも明るかった母が生きているうちにもう一度会えるのだろうか
(写真は父代筆の手紙、これが母からの最後のメッセージになった)

2018年5月9日水曜日

再入国許可証と米国市民権 4 アメリカのパスポート

8月29日の夜、テレビを見ていた私に突然テキストメッセージが来た。

姉からだ。


普段はGメールで連絡し合っているのに、初めてのテキストメッセージ。


iPhoneのスクリーンにバブルを見た瞬間にわかった。



母に何か起きた。




脳幹出血だった。


2010年の夏は酷暑。



姉は連日37度の中の介護があまりにもつらく、『この夏誰かが死ぬ。』と思っていた。


その前日から母は『頭痛がする』と言っていたらしい。

もっと早く血圧を測っていたら母は脳出血を起こしていなかったかもしれなかったのに、と姉はずっと後悔していた。


でも、あまりの暑さに脳が機能していなかったと言う。


姉が少しでも早く気がついていたら、などと誰が責められよう。


アルツハイマーの症状が出始めていた父と、1分も一人にできない母を抱えて、姉の介護は限界に達していた。


私が日本にいて助けるべきだったのだ。


なのに、私は暑いから体調を崩した、米国市民権を取るための宣誓式に出ないといけない、と帰国してしまっていた。


宣誓式をすませてアメリカ市民になった私は、いつでも日本に行けるようにアメリカのパスポートを取っておかねば、とアメリカのパスポートを一刻も早く取得したかった。


そして、母が脳出血を起こした前日、Certificate of Naturalizationつまり帰化証明書を申請書と共に申請所に送ってしまっていたのだ。


つまり私は米国市民になってしまったのに、日本に行くためのパスポートがないという状態だった。


ということは日本に帰国できない。



アメリカに帰化した友人の多くが日本に帰る時は日本のパスポートを使い、アメリカ入国の際にアメリカのパスポートを使っている。


アメリカでは二重国籍が認められているし、日本でも二重国籍を認めようという訴訟は起きているようだ。


が、小心者の私は多分日本の入国審査官に相対した時、不審に思われそうな態度を取ってしまうだろう。


そもそも友人たちの話はあとになって聞いたことで、その時の私はもうアメリカのパスポートでしか出入国できないのだと思っていた。

実際その数日前の宣誓式の時にも念を押されたのだ。


米国市民権を取った時点で、今後アメリカを出国する時はアメリカのパスポートを使わないといけない、と。


パスポートエージェンシーに電話すると、緊急の場合パスポートは当日発行が可能だが、母の容態の診断書が必要と言うことだった。


が、病院側からは数日かかりますという返答が来た。


私は英語の診断書を作り姉に送った。


病院がしないといけないことは、この英文を使って診断書を作り、ハンコを押すだけ。


すぐしてもらってほしい。


が、病院は数日かかります、という返事を繰り返すだけだ。




姉は諦めずに交渉し続けた。


やっと病院が折れて英語の診断書を発行してくれる。


翌日の早朝それを持って、サンフランシスコに向かったのだが、これが長い長い一日の始まりだった。


写真はイメージです