2017年2月3日金曜日

長女たち 3/3 父の愛

父との確執が姉の中では消化せずに、複雑な感情を作ったのは当たり前だろう。



父への恨みはあって当然なのに、姉は父を介護するようになってからは私にはとてもできないような介護をしていた。



父に対しても母に対しても、私のは自分勝手な介護だったのに、姉は父や母のことをちゃんと考えて介護していた。



やはりこれが長女の性なのだろうか。



だから親は長女にもっと頼り、長女は親の重さに苦しみながらも親に優しくありたい、という葛藤と戦いながら責任を果たそうとするのだろうか。




もちろんこの長女論に当てはまるのは全員ではないし、長女と次女、あるいは長男と次男がまるで反対の役割を持つ兄弟や姉妹も多いだろう。



ここで書いているのはあくまで次女である私と、第一子であり長女である姉が親の介護に関してどういう役割を果たしていたか、ということだ。



私自身は両親の介護をよくやったと思う部分と、なんていい加減な介護だったなろうと思う部分の両方がある。



私は父のことがかわいそうとは思いながらも、ホームの訪問は面倒だといつも感じていた。



自分が父にちゃんと会いに行った、という事実さえ作ればそれで良かったのかもしれない。



どうしてもっと父と長い時間を過ごして父に優しくしてあげられなかったのか、と今は毎日後悔する。



日本での3週間の介護滞在は段々と伸びて行き、4週間、5週間、時には2ヶ月になっていった。



高校生の子供がいなくなったからだ。



我が家には去年の夏まで、息子たちのどちらかが入れ替わり立ち替わり住んでいた。



が、高校生の送迎もなく二人が車を持った途端、母親の役割は飛躍的に減る。



だから、仕事をしていなかった私は介護で日本に長く滞在できるようになったのだ。



父が特別養護老人ホームに入居してからは、やっと手が離れたと思ったがそうではなかった。



毎日ホームの相談員さんから何度も電話がある。



父が後ろで『来てくださいよ。すぐ来てよ!』と怒鳴っている。



ホームでも持て余された父。



相談員さんからは『ホームでは対処できません、退所していただくかもしれません。』と言われる。



家族が毎日面会に行かないといけない状況は3年続いた。



その後私が日本にいる間は、週に3度から4度ぐらい行けば良いぐらい父は落ち着いてきた。



私が日本にいない時、姉は毎週水曜日と週末父を訪ねるようになった。

2016年の1月に父は友人たちに年賀状を数枚書いた
数々の思い出をありがとうございます、色々な思い出、あたたかい思い出、と
自分で3バージョンの文面を考えることもできたのだった



父が亡くなったのは6月20日。



5月2日に私がアメリカに帰ったあと、姉は週1の訪問に減らしていた。



気になりながらも、気候、自分の体調、仕事とアプの世話で忙しかったのも理由だった。



そしてこのことが父の死後姉をずっと苦しめることになる。



もっと行ってあげればよかった、かわいそうなことをした、と姉は後悔し続けた。



父には散々辛酸を舐めさせられた姉だが、やはり父への愛情があったのだ。



父は亡くなる数時間前ホームのスタッフに礼を言い、姉にはちょっとした冗談を言いながら、ありがとうと手を合わせた。



父は私のことはもうわからなくなっていたが、姉は近しい人とわかっていたようだ。



今あの時のことを思い出すと、父が姉のことだけを認識できたから、色々とありがとうと言っていていたのだな、と思う。



父が私をえこひいきしていたように見えた数十年分の愛と同じものが、姉へのその数秒間に凝縮されていたのかもしれない。



子供に対する親の愛情は上の子にだろうが下の子にだろうが、表現する形が違ってもその深さは同じなのだと思う。



私にとって長男と次男は同じようにかわいい。



30歳と27歳でも子供は子供。



出かけると彼らの猫のためのベッドをちょっと買ってプレゼントしたくなったりする。



そんな時も平等に同じものを買う。



違いと言えば・・・

可愛い色の方を幼い方(次男)にあげること

6 件のコメント:

  1. こんにちは、mikimieさん。介護の日々を回想して、いろいろと思うことがありますね。わたしは遠距離から高齢の親に接するとき、介護に戻った時の空間そしてアメリカに戻って来たときの空間が違うような気持ちになります。アメリカに戻ってくると、あの時はこんなことをしてあげればよかったなぁと後悔することが多かったです。mikimieさんも、お姉さまも、介護されている、その瞬間その瞬間で良かれと思い行動されていても、やはり後悔はあるのでしょうね。お気持ちお察しします。

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    1. ケイさん、こんにちは。わかります。私も同じように感じるんです。日本で親に接する時と、アメリカに戻ってきた時の空間がなんだか違う世界のような気がしていました。国が違うだけじゃなくなんだか異次元のような。
      やっぱりケイさんもあとで色々と後悔しましたか。皆そうなんでしょうね。私も毎回そうでした。関空からサンフランシスコまで飛行機の中で10時間泣き続けたこともあります。私しつこい性格だから^^

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  2. わたしは去年父が入院して看護付き添いしました。アメリカに帰って来るときの早朝、とても切なそうな顔をした別れ際の父をおいていくのが、とても辛かったです。わたしも、最近アメリカに戻ってくる機内で涙ぐむことが多くなりました。10時間泣きつづかれたのは、本当に悲しくてのことでしょう。涙が悲しみの心を癒やしてくれるよう願ってます。

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    1. 母の介護に家族が疲れ果ててヘルパーさんに入ってほしいと頼んでも、家族が介護をすればいいと父は最初拒否し続けました。父にきついことを言ったことがなかった私が、父に初めてキツく怒ったんです。家族が介護で全滅しないためには父にヘルパーさんを受け入れさせるしかない、と思ったからですが、その時の父の悲しそうな顔を思い出しては泣き続けましたね。今でもその時の顔を思い出すと涙が出ます。
      ケイさんがお父さまの切なそうな顔を見ながら病室を出る時の辛さがわかります。とはいえ、ずっとそばにいてあげられるわけではない。自分にも生活があるから。このジレンマが悲しいですよね。日本にいる親にとって、アメリカにいる子供との距離は遠いだろうし寂しいでしょうね。

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  3. 親に対して良かれと思うことを伝えても、その真意が伝わらないことも大変さのひとつだと思います。今まで自分でやってきたから他人の力は借りたくないという思いが、わたしの親にも強いです。お父さまにきつく言わざるをえなかったときは苦しかったかと思います。

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    1. ケイさん、やはりケイさんのご両親もそうですか。自分たちでできるから他人には家に入ってほしくない、と父はなかなか譲らなかったのですが、その分の負担は娘たちにかかってきたのです。それをわかってもらうのはなかなか大変でした。ヘルパーさんを受け入れてくれるようになってからも、文句を言うことが多くてよく喧嘩をしたものです。

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