2017年2月28日火曜日

次男からの知らせ

さて、日本行きは明日に迫った。



リタイヤする姉を祝うことと、送別会などに出たいだろうに、アプにお留守番させるのを心配する姉を助けるのが理由の半分。



あとの半分は日本でおいしく健康的なものを食べながら運動をして体質改善をする、というのが大義名分。



実際この前の血液検査でもコレステロール値は273だったし、病気になる可能性もあるわけだから、どうにかしないといけない。



で、まず最初は東京に2週間ちょっと滞在し、3月後半から4月は京都に滞在し桜を愛でてくる予定だ。



ところが、突然姉がやめるのをやめる、と言う。



職場でもうあと1年、それが無理なら半年でもいいから仕事を続けてくれませんか、と打診されたらしい。



条件は良いし突然仕事を辞めるよりは少しでも収入があるのは嬉しいし、と姉はもう半年は続けることにした。



父の心配をしなくてよくなった姉は、去年何度も体調を崩した。



精神的なストレスがすさまじかったので、父がいなくなると寂しい反面張り詰めていたものがなくなって、病気になり始めたのだろう。



私だって父がいないのは悲しいながらも、先の見えない介護という大きな精神的負担がなくなり半分はホッとしている。



いつ日本に駆けつけないといけないかもしれない状態というのは、常に心の奥底に重い石を抱えているようなものだ。



やっと両親を見送り、子供たちも自立し、もう私は自由なのだ。



足かせなど何もない(はずだ)。



サンフランシスコの次男とマリーのマンションに滞在すると、ついつい翌日の食事まで作り置きしてあげたくなるのだが。

これは明日の夕食
揚げない酢豚
ちなみに今日はマリー姉も招待して天ぷら


猫の世話だってとことんしてしまう。

なんか態度悪いな

両親にも子供にも猫にも、どこかで線引きをして放っておく、ということがなかなかできない。



だからこんなお知らせがあると、言いたいのはこの一言。

オーマイガッ!!

2017年2月27日月曜日

父とのお別れ

母とお別れした時と同じように、父との別れの日は姉と二人で斎場に行った。



その日斎場は混み合っていて、父の順番が来るまで少し待たされた。



斎場に行く車に乗る前に、父とは玄関でお別れをした。



お棺の中には父には似合わない蘭やバラをたくさん入れ、一番お気に入りだったシャツを着せて蓋を閉めた。



その時のことを思い出すと今でも涙が止まらないが、その1時間後の悲しみはそんなものではなかった。




火葬炉に入る前の父とのお別れ。



もう一度父のお棺の蓋を開けてさようならを言う。



本当に父は死んでいるのだろうか。



もう何も感じないのだろうか。



頬を撫でてみた。



父は氷のように冷たい。



でも父の頬が濡れているような気がする。



父は泣いているのだろうか。



まだ生きている、炉に入れないでくれ、と叫んでいるのではないだろうか。





炉に消えていく父のあとを追って行きたかった。



父を行かせてはいけない。



こんな理不尽なことをしていいわけがない。



どうにかこのまま父をここに置いておけないのだろうか。



もう父を見ることは一生ないのだ。




身の引きちぎられるような悲しみというのはこういうことを言うのだろう。



悲鳴をあげながら泣くのは初めてだった。

父が亡くなったあとのホームの部屋
この部屋の整理は本当に苦しい作業だった



父の骨は驚くほど大きかった。



特に骨盤や足、そして膝蓋骨は本当にあのやせ細った父のものなのだろうか、と信じられないほど立派だ。



どうやってこんなに大きな骨があの小さな体に入っていたのだろうか。



姉と二人で感嘆しながら少しだけ明るい気持ちになった。



母の時と同じで、子供にちょっとしたサプライズを残してくれる親。



それは私たちにほんの少しの慰みを与えてくれる。




悲しかったのは、そのことを伝えて一緒に驚き笑い合いたかった人がもういないことだった。



それは勿論父なのだった。



2017年2月26日日曜日

6日前 日本に出発

介護が大変なのはやはり仕事との両立だろう。



育児があるとさらに大変だ。仕事、介護、育児ともっと追い詰められるだろうが、ほとんどの人には育児が終わったあと介護が始まると思う。



姉が大変だったのは、母が生きている頃は母の介護だけではなく、仕事も大事だということを父に理解させることだった。



父はいつも言っていた。



自分がいつまで介護できるかわからない、それに自分が病気になったら途端に母の世話ができなくなるのが怖い。



だから、姉に仕事を辞めて母の介護に専念してほしい、と。



姉が仕事をしながら病院に泊まり込んだり、父の精神 的ケアをするのは大変だった。



でも辞めなくて良かったと思う。


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6月14日。姉は出勤前に訪問した。



抗生物質が効いて熱が少しだけ下がり、父は熟睡していた。



抗生物質は一日一回で3日間の予定。



看護師さんから病院で受診するとしたら、どこの病院がいいですか、と聞かれる。



姉の答えは『苦しい、痛いなどの症状があれば考える必要があるが、まずは主治医の森先生に相談したい。』というもの。



父は体力がなくなってきているので、感染しやすくなっている。



夕方行くと、スタッフのSさんが食事を部屋で食べさせてくれているところだった。



栄養ゼリーだけは結構食べる。熱は37度。

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この日私はサンフランシスコ空港から飛んだ。



ここからは日本に着いたあとの6月16日の記事に戻る。



姉はこの3月31日で退職する。



本当に大変だったと思う。



長い間睡眠時間を削って介護をしながら、仕事をしてきた。



やっと早起きもしなくてよくなるのだ。



だから、私は姉の退職を祝うために日本に行くことにした。



3月は送別会とかもあるだろう。



帰りが遅くなるとアプのことが心配だろうから、3月後半はその世話役も買って出ることにした。

日本に行く前に血尿の原因を調べるために、超音波、
レントゲン、膀胱内視鏡検査としたが問題なし
写真を撮ったのは、実は足の毛が気になったからなんです


日本に行く前に友人とおいしいものを食べておく
これは中近東料理 Chicken Shish Wrap



2月末にサンフランシスコ空港から出発する。



なのに、今回は準備が全く進まない。



原因はわかっている。

毛玉とりがやめられない

2017年2月23日木曜日

7日前 選択肢

久しぶりに朝から晴れた。



近隣のフリーウェイはあちこち洪水で閉鎖されたり、停電が4時間続いたり、とここ数年の水不足とは打って変わった今年の大雨災害。


AT&T Parkを南から見たところ
左に見えるのは地下鉄工事

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6月13日。



姉は職場で父にどういう最後を迎えさせてあげるべきか、とリサーチしているらしい。



私は私で食べなくなった場合はどうしたらいいのか、胃瘻はさせたくない、最期はどういう形で来るのかと調べ続ける。



点滴はせず脱水で朦朧として意識がなくなったら、脳内麻薬のβエンドルフィンが出て心地よいまどろみの中で穏やかな死が迎えられるのだ、と知り二人で入院はさせないという結論を改めて確認し合った。



この日姉が夕方訪問し一日の様子を聞くと、父は発熱したということ。



口の中が赤くなっている。



痩せたせいで入れ歯が合わなくなったせいか、脱水のせいか。



抗生物質が処方されるが父は飲まない。



だからそれだけは点滴で入れたということ。

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ベストセラーになったこんな本もあるようだ。



カスタマーレビューを読むと色々な体験談があり、やはり父が枯れるように亡くなったことは改めて良かった、と思う。



母は脳出血のあと入院し、点滴で生命維持されていたので身体中がむくみ 痰の吸引が続いた。



吸引の時はとても苦しそうにしていたばかりか、最終的には吸引の失敗で窒息し3日後に亡くなった。



その時のことを思い出すと、母への申し訳なさで苦しくなる。



が、母はまだ80歳で身体には生命力が残っていた。



不本意ながらお医者さんには胃瘻を勧められていたろころだったし、少しずつ枯れていくような年齢ではなかった。



だから他に選択肢はなかったように思える。

朝からカフェに行きパンを5つ買ってきた
私にもグルテンフリーダイエットという選択肢はないだろう

2017年2月21日火曜日

8日前 『引き出し』結論

今年の北カリフォルニアの雨は『日本の梅雨x7=うんざり』という感じ。



そもそも私が初めて渡米した1979年4月はもう雨季が終わったあとだったのに、まあ毎日雨が降ること、降ること。



『カリフォルニアの青い空』というイメージはあっという間に崩れ去った。

猫たちもくっついて丸まっている


6月13日の早朝、眠れなかったのだろう、姉から5時台にメールが来る。



万が一のために、母のお葬式を頼んだ業者はここ、とリンクが貼ってあった。



でも、この時は姉も私も父が数日後に死んでしまうとは思わなかったし、猛暑の京都で父をどういう形で訪問するかとそればかりを考えていた。



夏に父を訪問するには体力を残しておかないといけない。

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6月12日、夕方行くと村田さんとSさんが勤務していた。



このSさんは20代の女性だが頼りになる。



父が朝も昼も食べなかったという報告。



夕食はちょっとだけ食べた。



痩せてきているが肌のツヤは良い。



水分は一旦飲み込むがほとんど吐き出す。



Sさんが、『うがいと間違えてはるんやろか。』と言う。



姉は父の性格の問題だと思う、詰まるのが怖いのだろうと答えた。



特筆すべきは、村田さんがご飯を食べようと布団をはがしズボンを直してくれた時、父はくねくねして「恥ずかしい」と言った。



部屋に戻った時村田さんが布団をかけてくれたら、今度は足を高くあげて布団を蹴ってみせる。



父は足を高く上げる事ができるのが自慢なのだ。



きれいな人にはいまだ反応するのか、と姉は感心する。

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父はおしゃべりな人だった。



父が認知症になるずっと前から私は毎週1度は父に電話して話していたものだが、30分ぐらいはあっという間に過ぎる。



父とはいくらでも話せるのだった。



父は引き出しの多い人だったのかもしれない。



でも、夫に引き出しが多いのもどうだろうか、と思い始めたのも事実。



イギリスのYさん『サプライズばかりの引き出し男は疲れそうで、私にはもう(対処する)エネルギーがない。』というご意見。ごもっとも。



シリコンバレーのSさん『女性と同じような引き出し数を持ち、繊細で頭も良い芸術家と付き合ったことがあるけど、それはそれでめんどくさかった。繊細過ぎてわがままで。』というご意見。ごもっとも。



シカゴのMさん『うちにも引き出し持ってないのが一人いるけど、私のする事にな〜んにも文句言わないのでなんとか結婚生活を維持できる。』ごもっともごもっとも。



結論。



男は気が利かなくてボーッとしているくらいが良い。

究極のメンドイ引き出し男

2017年2月20日月曜日

9日前 毛玉切り

日本の洋服が好きで、日本に行くと必ず洋服を買ってくる。



この冬のヘビロテアイテムは、グレーのコートのようなカーディガン。



でも、ヘビロテし過ぎて毛玉ができる。



毛玉はひっぱってはいけない、ハサミでチョキチョキ切るべきなのだそうだ。



だから、切る。



無数の毛玉を切る。



これが面白い作業なので、根を詰めてしまう。



横にいる夫に『あ〜、この毛玉を取らないといけないんだけど、この作業が疲れるわ〜。』と言う。



すると夫は『新しいのを買ったら?』と言う。



私は解決策を求めているのではない。



私の呟きに反応があったのは評価しますがね(傲慢!)。



実は新しいのはもう2枚買ってあるのだが、そんなことは言わない。



夫との会話は6秒ぐらいで終わる。



これが女友達だと、自分の毛玉切りの失敗談、こういう素材のニットはどうケアすべきか、そして今ヘビロテしているのはどんな洋服か、来年はどんなのがほしいか、こういうものをドライクリーニングに持って行く時の話、などなど毛玉切りの話から1時間ぐらい広がっていく。



この前友人と毛玉切りの話をした時など、友人が『父は毛玉取りのいいのを持っていて、いつも毛玉取りをしていたわあ。』という話を始め、私の父も含めて戦中派の世代がどれだけ倹約をしていたか、かわいそうに、メガネもセロテープで壊れたツルを直していたのよ、なんて思い出話になる。



父の物を整理していた時に出てきた切り抜き
25年前の利子率!



夫に解決策を見つけてくれなくてもいいから、共感してくれない?と言っても無駄。



今朝ブログを読んでくれるYさんから入ったメッセージには、こう書いてあった。



『夫の引き出しって、シンプルで少ないかも。開ける前に何が入っているか全部わかっていて開けるのも面倒臭いかも。』



う〜む、これも深い。



確かに夫の引き出しには、開けなくても何が入っているか予想できる。



あらあ、奥の方を探ったらこんなものが出てきたわ、ということもなさそうだ。


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6月11日。



夕方姉がぶりのお刺身をブレンダーでみじん切りにして持って行くが、父は全部吐き出してしまった。



延々と大声で何かを訴えているが、内容がわからない。



結局、お腹いっぱいと言っているらしい。



部屋に戻りベッドに寝かせると、食べたいと言う。



ベッドから起こして椅子に座って少し食べる。



もう食べないと言い、しばらくすると食べるという繰り返し。



直前のことを覚えていない。




牧野君と話したが、夕方になるとこういう風に混乱することが多く食べない。



そして夜になるとお腹がすく。



部屋の温度が30度あったので、エアコンをつけたらうとうとし始めた。



暑いので姉もかなり疲れる。



父がこの夏を越すことは難しいだろうと思いながら帰る。


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父の認知症の中期に入った頃幻覚症状があり、私も追い詰められていた時期があった。



毎晩『今晩はこのまま寝ていいのだろうか。ホームから電話がかかってくるのではないだろうか。』と気持ちが休まる瞬間がない。



そんな時、夫は『認知症を予防する食べ物』のリンクを送ってきて、これを父に食べさせたらいい、ととんちんかんなことを言って私をムッとさせたものだ。


毛玉切りをしながら頭の中で唱える
『夫の引き出しの中は空、夫の引き出しの中は空』

2017年2月19日日曜日

11日前 共感力

夫の引き出しに関してはたくさんのメッセージをいただいた。



やはり妻たちは夫の引き出しの少なさに悩んでいる。



それもその引き出しは小さくて何も入らない!ということだ。



改めて引き出しを多く持っている上、その引き出し一つ一つが大きい女は偉いのう、と感心しているところ。



夫婦というのは男女の性差もある上、違った環境で育った人間が一緒に生活を始めるのだ。



最初はお互いの引き出しには何が入っているんだろう、と好意を持って手探りする。



結婚生活が長くなっていくに従って、その引き出しに何が入っているかなんてどうでも良くなってしまう。



とはいえ、子育て、介護、仕事の悩みが増えてくると『なんであなたの引き出しにはxxが入っていないのかなあ。』と腹を立てたりするが(これは主に妻の側)。



とはいえ、私もそろそろ夫に対する認識をリセットしないといけないんだと思う。



長年の介護往復を文句も言わず見守ってくれた夫の引き出しの数が3つぐらいしかなくても、それに対して腹を立てるのは自分を不幸にするばかりなのだろう。

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6月9日。夕方父を訪問し村田さんに父の様子を聞いたら、夕食は少しだけ食べたということ。



朝食は大分食べた。



お昼は食べずエンシュアも一旦飲んで、全部吐き出してしまった。



姉がエンシュアを飲ませるとコップ半分ぐらい飲み、ソフトクリームを2口食べた。



歌を一緒に歌いじゃんけんをする。



父が祖父(自分の父親)と母のことをどうしているか、と聞く。



姉がいつも通り祖父は50年前、母は5年前に亡くなったが、父は92歳でも元気だしあと5年ぐらい生きたら、あの世で皆に会うのもいいかもね、と話す。



その時父が言ったことは姉を驚かせた。



今まではこれからまだまだ長生きするね、と言うと喜んでいた父。



この日初めて父は、『もう生きる気力がない』と言ったのだ。

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その夜姉から来たメールには、予約が取れれば早く帰った方がいいかもしれない、と書いてあった。



死ぬのは時間がかかるかもしれないけど、2週間後には弱っているかもしれない。



なんとも言えない、と。



メールが来たのがアメリカの木曜日の朝。



歯医者さんは金曜日が休み。



歯医者さんに電話して月曜日までにブリッジを急いで作ってもらうか、それが無理なら仮歯が取れた時のためのセメダインをください、と頼む。



そして火曜日のフライトを予約した。



このころのことを考えるととても苦しい。



姉が父を訪問する頻度を週3から週2にし、そして週1にした頃から父の体力や気力は低下していったように見える。



もしかしたらそうではないのかもしれない。



年齢も年齢だし、だんだん枯れていくのが当たり前なのかもしれない。

2016年元旦の食事を皆で食べたあと
部屋に帰って機嫌良く歌う父


かといって、長年介護を続けた姉を責めるつもりは毛頭ない。



それなら私が5月にあのまま日本に残っていれば良かったのだ。



姉もその頃のことを考えては、父の死後つらい思いをしたようだ。



と、こういうことを女友達とはいくらでも話せる。



なにしろ女には共感力があるから、友人と話す時も『そうよねえ。本当によくxxしてあげたね。そういえば私にもこういう経験があるわ。』とその引き出しの奥から色々と出してきてくれて、会話がはずむ。



それに比べて、男たちは集まってもつまらん会話をしているではないか。



スポーツ、投資、不動産、スポーツ、スポーツなどなど。



男は妻と共通の引き出しを持っていなくても、共感する力を養わなければいけない。



女は過去の記憶・経験・自分の思い・弱みをさらけ出して、会話を弾ませることができる。



そしてそこに慰めを見出して心を通わせる。

毛生え薬を塗ったら最近額の生え際に産毛がはえてきたのよ〜、
とシワから何からさらけ出すのも女のいいところ

2017年2月18日土曜日

13日前 もう一度父に会いたい

父がいなくなって7ヶ月。



最初の数ヶ月のように毎日父のことを考えては泣く、ということもなくなってきた。



なのに、こうして父の最期の頃のことを書くと、父が懐かしくてたまらない。



父に会いたい。



でも、勿論それは叶わない。

亡くなるちょうど1年前の父
この頃はもうかなり痩せていた

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6月7日。


姉の職場に看護師Aさんから電話がある。



やはり父はあまり食事を摂らなくなったらしい。



5月20日以降完食の日がない。



体重は1ヶ月で2キロ減って、今日現在38.9キロということ。



エンシュアを処方する。



職場を早退した姉が、カレーとソフトクリームを持って夕方5時半に父を訪問すると、父は部屋で寝ていた。



食事に行こうと誘っても『しんどい』といやがる。



なんとか説得して歩かせたが、部屋の前のソファで座り込んでしまう。



そこに食事を持ってきて食べさせようとしたが、父は食べない。



部屋に戻って食べさせたが吐き出してしまう。



お茶も詰まると吐き出す。



バナナも吐き出す。



汚い、という不安もあるらしい。



ホームでは、甘い栄養補助食品などを足すなどの工夫をしてくれている。



頭が痛いし胸も痛いというので看護師さんに来てもらうが、熱が37度ある以外には特に問題なし。



血圧は低めでいつも通り。



酸素濃度も大丈夫。



水分も摂らなくなって脱水状態になった場合、点滴が必要となってもホームではできない。



その場合は入院する必要があると看護師さんから説明がある。



でも、本人にとってそういう治療は居場所を変わるストレスを考えると、施設で見守る方が本人にはいいのではないか、ということ。



父は姉がいると落ち着くなあと言うので、姉は2時間いて7時半ぐらいに部屋を出る。



出る時に、今日は食べてないよと父に言うと突然目が覚めたように『ほんと?頭がどうかしとったかなあ』とつぶやく。



この日の夜、牧野君が電話してきてくれる。



父が8時頃になって急に食堂に出てきて食事すると言ったので、姉が預けていた区分4のすき焼きとご飯を出したら食べた。



『お父さんにとっての食事の時間だったのかもしれないですね。』



姉が心配しているだろうと思ってかけた、というのを聞いて、姉は泣いた。


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これを聞いて私も6月中に日本に行くことを決めた。



5月の初めに帰国したばかりだが、やはり心配だ。



ちょうど奥歯のブリッジを作ってもらっているところで、仮歯では行けない。



ブリッジが出来上がるのは6月16日。



17日のフライトに乗れるとしても10日後だ。



姉から父の様子を撮った動画が送られてくる。



それを見ると、父は5月に私が見た時とほとんど変わらない。



長丁場になるかもしれない。



だから仮歯のままでは行きたくなかった。



動画を見るとまだまだ父は大丈夫と思ったのだった。

でもこんなことを考えながら
ピーツで大きなシナモンツイストを
涙を拭き拭き食らう私なんです

2017年2月16日木曜日

15日前 夫の引き出し

一昨日の地雷爆発後、私の心の奥底にはくすぶった怒りが残っていた。



自分でも理不尽な怒りだとわかっている。



でも、どうしてもこの気持ちを整理することができない。



まずは姉の記録から。

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6月5日、夕方6時半に父を訪問。



村田さんが今日は父が早くから食堂にきて、あまり食べずにさっさと部屋に戻ったと教えてくれる。



姉が持って行った区分4のカレーもソフトクリームもほとんど食べない。



お茶も一口でむせた。



いつもと変わらない様子。



歌を一緒に歌うし、じゃんけんもできる。



父は延々と話し続けるが、姉にはほとんどわからない。



わからないと言うと怒る。



だが、しばらくすると途中でぼんやりしてしまうようになったのが気になる。



先週は足を高く上げられると自慢していたのに。



このところワイワイ広場にも行ってないようだ。



でも、まだ一人で歩ける。



水分は800から1000cc飲んでいる日が多いが、たまに飲めない日もあるとの報告がスタッフからあった。



食事をどれぐらい食べているか確認しないといけない。


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夫は4人兄弟の上から2番目。



未亡人である夫の母は長男と住んでいるし、夫の妹二人も近所に住んでいるので、夫は親のことに関しての心配が一切ない。



なにしろ姑は84歳なのに、毎日エクササイズ(姑はエロビクスと呼ぶ)とヨガで忙しい。



いつ電話しても家にいない。



ジムに行って自転車をこぐ。



午後はビンゴかボーリング。



だから、夫に親の世話をした経験は皆無。




もちろんこれが反対に、母親の介護をしないといけない状況だったら、私も困っていただろう。



だから、ラッキー!と喜んでいいことなのだが、単純に喜べない。



認知症の親を病院に連れて行って長時間待たせたり、夜中ずっと付き添って寝ることもできない介護、父親の不安症と付き合う時もしかしたら自分の方が親より先に死んでしまうのではないだろうか、と思うほどのストレス。



こういうストレスの経験がない夫と、自分の苦しみを共有できない。



訴えても訴えても返事がない。



聞いているのかどうかさえわからない。



なんで一緒に苦しんでくれないのだ。



いつもいつもそう思っていた。



そして父の死後7ヶ月たったある日、夫がこう言った。



『そうそう、そういえばお父さんのホームのスタッフに、お礼のプレゼントはあげた?』



え?父のケアに関しての唯一の言葉はそれ?



そんな言葉ですませる?



これで父の介護の歴史は『ホームのスタッフへのギフト』に集約されてそれでお終い?



軽すぎない?



今日会った友人が言う。



それはね、彼に『(介護の悩みを)受け入れる引き出し』がないのよ。


母が亡くなったあと、父は肺炎にかかるまで
機嫌良くデイサービスに通っていた


なるほど、そうなのか。



夫は職場でストレスを受けていたのに、私はその気持ちを考えてあげたか。



慰めたか。元気づけたか。否。



なのに、こうして夫に腹を立てるのは傲慢というものだろう。



精神的なサポートはなかったとしても、他の色々な面でサポートをしてくれた夫。



それが夫の持っていた引き出しなのだろう。



そんな夫を『長年の介護の後遺症』という言葉を盾に責めてはいけないのかもしれない。(と、とりあえず今日は殊勝な気持ちになる。)



ありがとう、友人。



ついでにお土産に持ってきてくれた、おいしいサモサもありがとう。

一つは夫に分けちゃる

2017年2月15日水曜日

22日前 地雷

スミマセン。



今夫にイライラしています。



頭が爆発しそうなほどのイライラの勢いで、次の姉の記録を書きます。

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5月29日、いつものように日曜日の夕方6時半に父に会いに行く。



食堂に行くと父だけがいない。



村田さんが連れ出す準備をしてくれていた。



トイレのあと延々と拭いてくれている。



その後大きな声で『補聴器をはずしますよ。』と着替えをさせながら父に話しかけている。



声を張り上げているのだが、村田さんには優しさを感じる。



食事は冷め切っていたが文句は言えない。



アマゾンで注文した介護食区分4のすき焼きを家で温めて持って行ったのが、ちょうどいい温度になっていてご飯にかけて食べさせた。



父はおいしいと言いながら何口か食べたので、カレーとすき焼きをスタッフに10袋預ける。



村田さんによれば、お昼ご飯はよく食べていたとのこと。



父の部屋のお布団はやっと夏仕様になっていた。



歌の本を持って行った姉が歌うと、父は何曲かに反応して一緒に歌う。



じゃんけんをしたが、勝ち負けは理解していないように思える。



父が大きな声で話す。



このころの父は唇をしっかりと動かさずに話していたので、内容はわからないが結構大きな声で話す。



体力はまだまだあるのだろう。



唯一姉が理解できた父の言葉は『泊まって行ったらええのに。』だった。



だんだんボーッとして来たので、姉は父に声をかけずにそっと部屋を出た。



姉と入れ替わりに村田さんがすぐ入ってくれる。



父がじっと村田さんを見つめながら右手を出してありがとう、と目で言っている姿があった。

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さて、なんで夫に怒っているのか。



この気持ちはなかなかわかってもらえないと思うのだが。



夕食のあと、私が今日買った姉へのギフトの話をしていた。



そういえば、と夫がふと思いついたように言う。



『(父の)ホームのスタッフにお世話になったお礼のギフトは何かあげた?』と。



その瞬間私の中の何かがキレた。



夫が地雷を踏んだのだ。



『私にそんな常識もないと思うわけ?そんなことに口出ししないで!』と冷たい目で夫を見て低い声で夫に宣言する。



これは夫にとってはなんとも理不尽な私の仕打ちだろう。



夫は私が介護のために日米往復していた時サポートしてくれた。



子供たちがまだ家にいた時だ。



二人とも車は運転していたので送迎の心配はなかったが、食事は作ったりテイクアウトしたり色々と大変だったのもわかる。



父からの補助も少しはあったが、飛行機代だってかかった。



でも文句は言われなかった。

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ここまで書いて24時間が過ぎた。今朝は早起きして山歩きをしてきた。



山歩きの仲間に昨夜の私の怒りを話したが、やはり夫がサポートしてくれたことに感謝こそすれ、という話になる。



でも、それがわかっていても複雑な感情が入り混じるのが介護の大変さなんだね、とも。

久しぶりのすばらしいお天気


もちろん今日はもう腹を立てているわけではない。



繰り返すが、私だってわかっている。



夫がどれだけ縁の下の力持ちでいてくれたか。



なのにモヤモヤする。



お風呂でゆっくり考えてみた。



そして私なりの結論が出たので明日書くことにする。

ほら、あるでしょ?
何なのかようわからんが、イラつくことって

2017年2月13日月曜日

29日前 ホームのスタッフ

夕方6時半に父を訪問。



姉が父のホームを訪問するのはこの頃毎週日曜日のみ。



ホームのスタッフは父に優しく接してくれたが、中でも心の底から父のことを思ってくれていることがわかる二人がいた。



40代前半ぐらいの女性スタッフ村田さんと、25歳ぐらいの男性牧野君。



牧野君の方は父の棟のリーダーだ。



このどちらかが夜勤の日は家族も安心できた。

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5月22日。



この日は村田さんが午後の勤務だったのだろう、父は穏やかに食堂で座っていた。



他のスタッフも優しいし、父のように手のかかる人をよく世話してくれたものだ、と感謝でいっぱいだが、村田さんと牧野君は少し違う。



認知症患者に言い含めようとしない、楽しそうに話を合わせてくれて、大丈夫やで〜と父を不安にさせないコツを知っている。



村田さんの報告によると、この日の父の食事内容はご飯がゼリー状で、おかずは形の残っている柔らかい状態のもの。



夕食は口に入れても出してしまう。



精神状態は興奮気味で、口の中に異常があるか調べたが特に問題はなさそうだった。



栄養ゼリーを少し食べただけだったので、栄養が足りないとミキサー食を少し出したら、スムーズに食べて落ち着いてきたらしい。



姉がホームに着いたのがちょうどその頃だったわけだ。



姉が持参したバナナを3口、ソフトクリームを5口、水ようかんを2口食べたあとお茶を飲むことができた。



その後足を痒がるのでオリーブオイルを塗ったが、おさまらない。



その時村田さんが部屋に入ってきて、タオルで足を拭いてかゆみ止めの薬を塗ってくれる。



父は手を合わせて喜んでいた。



姉が顔を拭いてあげて、外耳に垢が詰まっていたので濡れタオルで拭いたが、耳鼻科検診が必要だと感じたようだ。



カレーなどのレトルトを預けていたが、固形物は口から出してしまうようになったので、介護食のもっと固形のない物をたくさん買ってホームに預けることを決める。


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姉のこの報告を読んで、夏に帰ったら父を耳鼻科に連れて行ってあげようと決める。



前回行ったのは2015年の夏だった。



認知症患者は自分の身体のどこかに不具合があっても、何がどう具合が悪いのか自分では認識できなくなってくる。



そして、それがストレスになって不安やストレスの原因になっていたのかもしれない。



これ⇩なんかも、ストレスがあるものの原因がはっきりしない図、かも。


かわいそうなアイドル

2017年2月12日日曜日

36日前 ゼリー食

5月15日、父の死の36日前。



この週から姉は父のところに日曜日のみの訪問にした。



姉のメールから、父の最後の36日間を最初は1週間おきだが記録しておこうと思う。

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午後6時半に姉が父を訪問する。



食事はまだ。



スタッフによると、寝ている時に起こしてすぐ食事というと混乱しやすいため、タイミングを見ているとのこと。



部屋に入ると起きていたので食堂へ。



椅子に座らせると冷たい食事がそのまま出てきたので、温めてくれと頼んだ。



その際、ゼリー状ご飯と茶色っぽい皿一つなのでこれだけかと尋ねると、スタッフが急に調べ始めてメインの料理がないことに気づく。



配膳忘れとのこと。



茶色っぽいものは大根の煮物。遅い時間なので調理室にもメインの料理は残っていない。



味噌汁の温めはなし。



預けているカレー(レトルト介護食)を温めてもらい食べさせたが、固形物が入っている、普段と違うと言いほとんど食べない。



栄養ゼリーだけ食べさせる。



部屋でソフトクリームを食べさせるとおいしいと喜ぶ。



その他の会話はほとんど成立しない。



ノートに書かせようとすると面倒がる。



家に年寄りはいるか、と父が聞く。



母は5年前に死んだと言うと残念がるが、姉が順番だと言うと笑う。

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何度か書いたがホームの食事はとてもまずかった。



それがゼリー状になっているのだから、食感も良くないし父の楽しみはもうなくなっていたと思う。



数年前からテレビも楽しまないようになっていた。



理解できなくなっていたのだろう。



その分一日中暇を持て余し、色々と心配ばかりしては不安になっていたようだ。



だから、とにかく娘にそばにいてほしい、という依存心が余計に強くなっていた。



父のことを考えると自分も老後子供に依存心を持たないようにしたい、とよく思う。



いまだに子離れできない私だが、父のようにだけはなりたくない。



子供たちが何歳になっても私は子離れできないのではなかろうか。



長男と次男が相次いでこの家を出た時は本当に寂しかった。



長男は部屋をいつも散らかしていて、ティーンエイジャーの頃から大学を卒業して我が家から通勤していた頃まで、ぐちゃぐちゃの部屋で暮らしていた。



家を出てからもずっと散らかったままだったので、ずっと存在感があったと言えばあった。



ところが去年の秋私が日本から帰ってきたらきれいに片付いていた。

それはそれで寂しいものなのね

2017年2月10日金曜日

雨のサンフランシスコ

今週はサンフランシスコの次男とマリーのマンションに滞在している。



大体サンノゼの家で2週間過ごし、サンフランシスコに火曜日辺りに来て金曜日にまた帰宅するというパターンが多い。



普段次男とマリーはレストランから夕食を宅配してもらうことが多いので、私が時々来て夕食を作る。

この大量の野菜はある日の夕食に全部使った
夫と私二人の家では決してここまでしない


サンフランシスコでは徒歩圏内で色々と遊べるので、運動不足を解消するべくてくてくと歩く。

今日は右端に見えるフェリービルを目指して雨の中をひたすら歩く

こんなに雨の多かった冬も記憶にないほど今年はよく降った

突風で傘を持っているのも大変なほどの今日のサンフランシスコ


こうして歩いている時は必ず日米を往復していた頃のことを思い出す。



どうして去年の5月にこちらに帰ってしまったのか。



私が帰国した数日後5月8日の姉からのメールには、不快な感情を訴え続ける父に腹が立つとあった。



父に憐れみよりも怒りを感じるということだ。




私のようにたまに日本に行くのであれば、姉だって父に怒りの感情は持たなかったかもしれない。



その頃の私は介護往復をしていても、100%の悲壮感はなかった。



カリフォルニアに帰れば友人とご飯を食べに行ったり家族で集まってパーティをしたり、と楽しい毎日だったのだ。



そんな時でも父のことは頭の片隅にあるし、いつ日本から突然父が危篤だという電話があるかもしれないと考えてはいた。



が、やはりこちらにいる時はリラックス感が違う。



姉は完全にリラックスできる時がもう何年もなかった。



ホームでもスタッフは父に一番手がかかっていたはずだ。



父の棟の入居者の中では父の認知症が一番軽かった。



なのに、不安をいつも抱える父は事あるごとにスタッフを呼びつけていた。

こういうカフェでぼーっと一人で座って完全にリラックスできる状態が姉にはなかった
いつ何時ホームや病院から電話がかかってくるかわからない状態が15年以上続いたのだ



この日の父は姉が何を話しかけても楽しそうにするわけでもなく、ひたすら不快感を訴え続ける。



貴重な週末の時間を、自分を長年苦しめてきた親のために潰さないといけないのか、とやりきれない気持ちになった姉。



姉からのメールの最後には、もうこれからはあまり(ホームに)行かないと思う、とあった。



このことは姉も父の死後何度も思い出しては苦しんだらしい。



姉には、それは当たり前の感情だから仕方ないし、そんな風に考えなくてもいいと思う、と言えるけど、自分には同じことが言えない。



なんでもう少し父のそばにいてあげられなかったのか。



一日も早くカリフォルニアの自分の家に帰りたくて仕方なかった。



なんて自分勝手だったことか。



責められるべきは私なのだ。

ラジオ体操を三日坊主でやめたことを責めている猫ズの顔

2017年2月7日火曜日

エクササイズ

還暦を前にちょっと血液検査でもしておこうと思ったら、まあ〜なんと成人病まっしぐらの結果。

総コレステロール値273
LDL159
HDL91
血糖値116
HbA1cは5.9%
という驚異的なメタボ結果。



そりゃそうだろう。



サンフランシスコで過ごす時間が増えて、歩いてトレーダージョーズやデパートに行けるようになったので、運動はしていると油断したのが間違い。



トレーダージョーズの帰り道にピーツに寄って、カプチーノを飲みながら甘いパンを食べるわ、デパートのカフェでハンバーガーは食べるわ。



運動量は歩数にしてみると多くて7千歩ぐらいのものなのに。

サンノゼにいる時の運動はせいぜい裏庭の草むしりぐらい


最近自分の老後のことをよく考えてしまう。



もう子育ても終わり息子たちは自立している、両親とも見送ったし、あとは先細りの人生。



そう思うと、明日死ぬと言われても抵抗があまりないような気がする。



義務感や達成感がなくなったせいで、こんな厭世的な気持ちになっているんだろうなとは思う。


が、とにかく子供に迷惑かけたくないから早いうちに死んでしまってもいいかな、これって下手するとうつ病とかにつながる?と思ったりするのも事実。



父が亡くなったのは92歳の時、母は80歳の時だった。



病院での人間の価値は年齢とともに反比例することもわかった。



父が最期の時間を病院ではなく、住み慣れたホームで私や姉に囲まれて過ごしたのは良かったと思う。



思うのだがそれはそれで後悔も多く、いまだに心の中で整理できない。



そのことを少しずつ書いていきたいと思う。



とりあえず、子供たちに迷惑をかけなくていいように健康でいたいことだし、今日からラジオ体操をすることにしましょう。



とエクササイズを始めたが・・・

そこまで驚くこと?

2017年2月3日金曜日

長女たち 3/3 父の愛

父との確執が姉の中では消化せずに、複雑な感情を作ったのは当たり前だろう。



父への恨みはあって当然なのに、姉は父を介護するようになってからは私にはとてもできないような介護をしていた。



父に対しても母に対しても、私のは自分勝手な介護だったのに、姉は父や母のことをちゃんと考えて介護していた。



やはりこれが長女の性なのだろうか。



だから親は長女にもっと頼り、長女は親の重さに苦しみながらも親に優しくありたい、という葛藤と戦いながら責任を果たそうとするのだろうか。




もちろんこの長女論に当てはまるのは全員ではないし、長女と次女、あるいは長男と次男がまるで反対の役割を持つ兄弟や姉妹も多いだろう。



ここで書いているのはあくまで次女である私と、第一子であり長女である姉が親の介護に関してどういう役割を果たしていたか、ということだ。



私自身は両親の介護をよくやったと思う部分と、なんていい加減な介護だったなろうと思う部分の両方がある。



私は父のことがかわいそうとは思いながらも、ホームの訪問は面倒だといつも感じていた。



自分が父にちゃんと会いに行った、という事実さえ作ればそれで良かったのかもしれない。



どうしてもっと父と長い時間を過ごして父に優しくしてあげられなかったのか、と今は毎日後悔する。



日本での3週間の介護滞在は段々と伸びて行き、4週間、5週間、時には2ヶ月になっていった。



高校生の子供がいなくなったからだ。



我が家には去年の夏まで、息子たちのどちらかが入れ替わり立ち替わり住んでいた。



が、高校生の送迎もなく二人が車を持った途端、母親の役割は飛躍的に減る。



だから、仕事をしていなかった私は介護で日本に長く滞在できるようになったのだ。



父が特別養護老人ホームに入居してからは、やっと手が離れたと思ったがそうではなかった。



毎日ホームの相談員さんから何度も電話がある。



父が後ろで『来てくださいよ。すぐ来てよ!』と怒鳴っている。



ホームでも持て余された父。



相談員さんからは『ホームでは対処できません、退所していただくかもしれません。』と言われる。



家族が毎日面会に行かないといけない状況は3年続いた。



その後私が日本にいる間は、週に3度から4度ぐらい行けば良いぐらい父は落ち着いてきた。



私が日本にいない時、姉は毎週水曜日と週末父を訪ねるようになった。

2016年の1月に父は友人たちに年賀状を数枚書いた
数々の思い出をありがとうございます、色々な思い出、あたたかい思い出、と
自分で3バージョンの文面を考えることもできたのだった



父が亡くなったのは6月20日。



5月2日に私がアメリカに帰ったあと、姉は週1の訪問に減らしていた。



気になりながらも、気候、自分の体調、仕事とアプの世話で忙しかったのも理由だった。



そしてこのことが父の死後姉をずっと苦しめることになる。



もっと行ってあげればよかった、かわいそうなことをした、と姉は後悔し続けた。



父には散々辛酸を舐めさせられた姉だが、やはり父への愛情があったのだ。



父は亡くなる数時間前ホームのスタッフに礼を言い、姉にはちょっとした冗談を言いながら、ありがとうと手を合わせた。



父は私のことはもうわからなくなっていたが、姉は近しい人とわかっていたようだ。



今あの時のことを思い出すと、父が姉のことだけを認識できたから、色々とありがとうと言っていていたのだな、と思う。



父が私をえこひいきしていたように見えた数十年分の愛と同じものが、姉へのその数秒間に凝縮されていたのかもしれない。



子供に対する親の愛情は上の子にだろうが下の子にだろうが、表現する形が違ってもその深さは同じなのだと思う。



私にとって長男と次男は同じようにかわいい。



30歳と27歳でも子供は子供。



出かけると彼らの猫のためのベッドをちょっと買ってプレゼントしたくなったりする。



そんな時も平等に同じものを買う。



違いと言えば・・・

可愛い色の方を幼い方(次男)にあげること

2017年2月2日木曜日

長女たち 2/3 逃避

ピーツに座っていると日本語が聞こえてきた。



40代ぐらいの二人の女性が話している。



『去年父が脳梗塞を起こして入院、そしてまた脳梗塞を起こし今度は右半身が麻痺してまた今入院中。』というような内容だ。



とにかく最近あちこちで介護という言葉が耳に入ってくる。




アメリカに住んでいると日本に住む親を助けてあげたくても、子育て中、あるいは仕事をしているなどの理由から帰れないことも多い。



私自身も子供がいるんだから、という大義名分を掲げて母が入院した時も、父と姉に任せていた。



38歳の時に薬害で下半身不随になり失明した母が、脳梗塞を起こして深刻な介護を必要とし始めてからも、私は自分の生活のことしか考えてなかった。



ケアマネに電話して介護計画を一緒に考える、個人的にヘルパーさんを頼んでその費用を払う、などなどアメリカからでもできることはいくらでもあったのに。



姉はアパートで一人暮らしをしていたが、父の要請で家に戻った。



これが間違いだった。



昨日の友人の話ではないが、おんぶお化けの父は姉に依存し自分の不安を全て押し付ける。



仕事から帰っても姉は休まる場所がない。



夜中は母の介護で眠れない日々が続く。



日中は基本的には父が介護をしていたが、姉が定期的に母の部屋に布団を敷いて夜の介護を代わっていた。



親子の間だろうとボーダーラインというものが存在し、それを超えてはいけないというルールが父にはわからない。



だから、姉のした何かが自分の意に沿わないと言葉で追い詰める。



それを目撃しても、私には『姉を傷つけている』という情報として頭の中に登録されていなかった。



親は何を言っても子供たちのことを愛しているのだから、まあちょっとやそっとの父の暴言は気にしなくてもいいではないか、と無意識に処理していたのだと思う。



それは無条件に愛されている子供が、知らない間に持つ安心感から来ていたものなのかもしれない。



だから、愛されていると感じていない姉の苦しさに、無頓着だったのかもしれない。



その意識のない傲慢さに姉はイラついただろう。



ある日姉が私に対して爆発した。



その頃私は日本に『遊びに』帰っていたのだ。



日本にいる親に孫を会わせてあげる、それで充分と思っていたのだから恥ずかしい。



爆発してくれてよかった。



私は自分の能天気ぶりに気がつかず、姉が父に時折冷たい態度で接しているのを見て、父をかわいそうだと思っていたのだから。



母も父から逃げるところがなかったが、姉もまた逃げ場のない生活だったのだ。



職場にいると電話がかかってくる。



会議が終わり自分の机に帰ってくると、着信履歴が13回と出ている。



父からだ。



母が熱を出した、38度もある。すぐ医者に電話してくれ、という。



すぐかけ直さないと父がわめく。



私には決してしないことを、父は姉にはするのだ。



長女が親を世話するのは当たり前、と父は自分の行動を正当化する。



それでも姉は父に従わないといけない。



なぜなら母が人質として父の支配下にいる、と感じるからだ。



だから、仕事中でも姉はすぐ対処せざるをえなかった。



母が入院した時も、父の言いつけ通り京都の南の端にある家から北の端の病院まで車で2往復して、父の要求を満たさないといけない。



それは父にとっては当たり前のことで、何もしなくてもかわいがる対象は次女の私だった。



姉の長女としての大変さを、そして父の理不尽さをやっと理解した私は、それから日米介護往復するようになった。



日本に帰れば介護は全面的に交代し、昼も夜も母の介護をした。



夜は何度も何度も母が起きるので、そのたびに階下に降りて世話をする。



時には階段を踏み外してしまうこともあったが、40代の私には大したことではなかった。



それは多分、ここでしっかり介護をしておけばアメリカに帰った時楽な生活が待っている、という逃げ道があったからだろう。



3週間ぐらい昼夜関係なく介護をしても大丈夫。



どんなに大変な介護でも、3週間たてば介護は終わる。



姉の場合終わりがなかった。



まとまった期間介護から完全に離れることができる状態は、介護の本質から離れてしまっていたのだろう。



介護のつらさは終わりが見えないことだ。



3週間の期限付き介護が終われば、私は好きな場所(ほとんどの場所は食べ物が関わっているが)に逃げて行ってしまい、介護とは関係のない世界でぬくぬくと過ごすことができるのだ。

逃避場所・丸の内と東京駅のお弁当

逃避場所・サンフランシスコで一人カフェ

逃避場所・Whole Foodsの餅アイスクリーム売り場



そう。誰にも邪魔されずに心からくつろげる場所がない限り、介護は続かない。



親の面倒を見ている兄弟姉妹がいたら、時々完全に逃避できる場所とまとまった時間を提供してあげるのが、親と離れて住む私たちの義務なのかもしれない。


逃避場所・・・

2017年2月1日水曜日

長女たち 1/3 重い親

日本から帰ってきた友人Sさんが言う。



『母の繰り言を毎日聞かされて苦しかった、母があまりにも重い』と。



年老いた母に優しくしてあげたいけど、愚痴を聞かされていると頭がおかしくなってしまいそう。



まるで甘ったれのおんぶお化けを常時背負っているような息苦しさ、ということだ。




これは多くの長女から聞く言葉だ。



『母が重い』




我が家の場合は父が重かった。



そんな父に介護される母は本当に辛いことも多かったと思う。



母が『窓を開けてほしい』と言っても、父は外から車の煤煙が入る、と開けさせない。



排便の折に肉の薄いお尻の下に入れた便器が痛くなっても、父は母に我慢させる。



排便がうまくいかなかったら病気になるかもしれないから、と母の横で延々と言い続ける。



足を自分で立てることもできない母が泣く。



呪文のように母を叱り続ける父から逃れられないと言って泣く。



普段明るい母でも、父の不安障害から来る自分勝手な束縛から逃げ場がないのは、本当に苦しかったと思う。



そんな母がかわいそうで、父に意見しようものなら、『親のことだと思って無責任だ。いい加減なことを言うな。いざという時責任を持てるんか。』と延々と責め立ててくる。



それでも、こういう父の『重さ』に気がついたのは、私が40代半ばを過ぎてからだった。

特に最後の4年間はすさまじい重さだった


姉は違った。



姉にとって父は小さい頃から重かったのだ。



長女(なおかつ第一子)として期待され、良い成績をとるのは当たり前で、いわゆる『良い友人』と遊ぶことだけが許された。



つまり、成績が良く姉にいい影響を与える友人だ。



姉は小さい頃から自分の部屋で、いつも辛い気持ちを紙に書き付けていたという。



方や私はといえば学校の帰りに川に行き、夜遅くなるまで家に帰らない。



友人たちと毎日洞窟探検に行き、とんぼを取りに行き、幼少時はひたすら遊んだ。



親は私に何も期待していなかった。



ただただ可愛がられた私は、姉の苦しみなんぞ全くわからないまま大人になった。



父は私を愛してくれる優しい人で、どんなわがままも聞いてくれる。



そして母を毎日介護するとてもいい人だった。

自分が末っ子としてえこひいきされている、
ということを知る由もなく


姉が時々父に冷たい態度を取るのを見るのはつらかった。



あんなに優しい父なのに、姉はどうして父に対して不満を持つのだ。



今から思えばなんという大きな勘違いをしていたことやら、と姉に申し訳なく思う。



姉も母と同じく逃げ場がなかったのだ。

ムカつくよね、やっぱ
下の子のこういう天衣無縫なところ