2016年6月30日木曜日

看取るということ3/3

父の出棺の日は私の人生で一番悲しい日だった。火葬場で父の棺を開けて最後のお別れをし、父を見送る時の絶望は決して忘れることができないだろう。やめてください!父を連れて行かないでください!と叫びたかった。ここで父を見送ったらもう父に二度と会えないのだ。

夫や息子は父とのお別れをしに来る、と言ってくれたが断った。母とのお別れの時と同じように、両親の子供たちだけ、つまり姉と二人だけで送りたかった。家族と言えども夫や息子たちが日本に来ると気を使う。親戚にもあとで連絡することにした。私が12歳の時薬害で失明し、下半身付随になった母。その母を42年間介護した父。他の誰がここに来ても、父を送る日は違ったものになってしまうだろう。

いつもいつも笑いの溢れた家だった。父は育った地域や家庭の文化がそうだったのか、モラハラ気味の言葉を発する人だったが、それでも私や姉に対する愛情は深かった。今はただただ父にもう会えないという事実に圧倒され、苦しくて仕方ない。喪失感が日に日にふくらんで行く。この悲しみが癒えるまで、涙が止まるまで何年かかるのか、とやりきれない気持ちになる。

いきなり自分のコア部分を失ってしまったようで鬱になるのが怖い
今日は南禅寺の水路を見に行ってみたが

これから数年間、いや、ある意味一生後悔は続くと思う。父を死ぬまで家で介護してあげられなかったこと、最後の瞬間に父のそばにいてあげなかったこと、両親を置いてアメリカに渡ってしまったこと、その両親はアメリカに一度も来ることができなかったこと、ホームでもっとおいしいものを食べさせてあげられなかったこと、もう一度柔らかい本物のソフトクリームを食べさせてあげたかったこと、お棺に補聴器を入れてあげられなかったこと(金属は入れられない)、5月に毎日父のそばにもっといてあげなかったこと、全てをずっと後悔するだろう。

最後の2日間父は1匙食べただけだった

でも、父は幸せだったと信じたい。父が亡くなる日の夕方、「また明日の朝ね。」と挨拶に来てくれたスタッフの二人に、父は手を合わせて『ありがとう』という仕草をした。父はもしかしたら娘たちのこともよくわからず、ホームのスタッフの方により近しい感情を持つようになっていたのかもしれない。それはそれでいい。

早朝ホームの主治医が来てくれて、父の死亡時刻は看護師が心電図で死亡を確認した4時3分にしましょう、ということになった。だが、私は父の死をその1時間前と考えることにした。最後に生きている父を見た2時43分。それから20分ぐらい父は生きていたような気がする。だから父が死んだのは3時3分に決めた。

病院で管につながれず、胃瘻もせず、枯れるように逝った父。何も食べたくなくなり脱水で死ぬ時は、脳内エンドルフィンが出て幸せな気分になれるということだ。延命措置を取らずに、住み慣れた場所ですばらしいスタッフに囲まれて父を見送れたのは本当に良かったと思う。父は今幸せな気分の中に漂っているのかもしれない。

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このブログは明日のエントリーをもって最終日とします。

42年にわたる母の介護を終えたあと、一人ぼっちになった父のアルツハイマー病との付き合い、家族との日常の記録を残すために始めたブログです。自分の考えを整理することができ、そして父の思い出も記録しておくことができました。長い間おつきあいくださってありがとうございました。

ブログを通じて世界中に友人ができました。メールもたくさんの方からいただきました。どの友人もどのメールも宝物です。これからは介護で悩んでいる方々のサポートを少しでもできたら、と思っています。介護システムに関しての質問、苦しい気持ち、悲しい気持ち、崖っぷち気分、どんな気持ちでもメールでぶつけてください。

また、すぐに新たなブログを始めたくなるかもしれません。

その時はよろしくお願いします。


2016年6月29日水曜日

看取るということ2/3

父はシャツを脱ぎかけていて左肩が出てしまっていた。寒そうでかわいそうだったので、誰かを呼びに行く前にシャツを着せてあげた。ベルを鳴らしたらスタッフと看護師さんが飛んで来てくれた。

看護師さんは心電図を撮る用意をしながら、父を蘇生しようとしてくれた。父の呼吸音が聞こえる。「父生きているんですか!」と聞いたが看護師さんは黙ったままだ。人工呼吸器なのか何なのか、父の喉が音を出しているだけのようだった。

父は蘇生しない。やっぱりダメなのだろうか。でも、私も姉もいない時に死んでしまうわけがない。姉を家に帰らせるんじゃなかった。父に悪いことをした。娘どころか、スタッフも看護師さんも、誰一人父のそばにいなかったのだ。父は最期の瞬間何を考えたのだろうか。苦しかったのだろうか。息を大きく吐いたのだろうか。それとも眠るような穏やかな最期だったのだろうか。今となっては何もわからない。

2013年の夏、父89歳
ホームでの色鉛筆教室を楽しんでいた

とにかく父に悪いことをした、という後悔ばかりで、父が死んだという実感が湧いてこない。麻痺した頭で姉にメールを送った。父が危ない時は電話をする約束だったが、夜中の3時半に電話が鳴るのはやはり不穏すぎる。すぐ来るという返信があった。

看護師さんが父の蘇生を諦める姿をぼんやりと見つめた。その時看護師さんが父の足元にあった毛布をめくった。

抑えた悲鳴は自分の喉から出たものだった。毛布が取られた父の足を見た時、衝撃的な悲しみが襲ってきた。やっぱり父はまだ死ぬつもりではなかったらしい。

父は足を組んでいたのだ。


2016年6月28日火曜日

看取るということ1/3

父は自分が死んだことがわかっているのだろうか。

6月19日の父の日、姉と私は朝昼夕方と3度に分けてホームに行った。夕方行った時父の足は少しチアノーゼが出ていたが、まだまだ大丈夫そうだった。何故なら父はシャツを脱ごうとして、ものすごい力でスタッフや私たちをはねのけたからだ。とにかく父は私たちが何度シャツを着せてもすぐまた裸になってしまう。身の置き所がないような仕草を続ける父を見るのがかわいそうでたまらなかった。

こうしてシャツを脱いでしまうことを繰り返した

看護師さんが酸素量を測ろうとしても父は強く拒否した。血圧、脈は正常。まあ大丈夫だとは思いますが、なにしろ高齢なのでスコンと逝ってしまわれることもあります、ということだ。でもこの父の力強さを見てまだまだ数日は大丈夫だろうと私も姉も思った。

これから毎晩交代になる可能性もある、と思いその日は私が泊まり込むことにした。水曜日に関空に到着してまだ4日目。眠かったが、イライラと身体を動かす父を撫でてあげたり、ブラシで髪をといてあげたりしながら横で見守った。そして時々父に話しかけた。父の耳の中に補聴器を入れると父は『補聴器があるということ』に反応し、触ろうとする。わけがわからないが、自分にとっての何かだということは感じるようだ。触ると引っ張って手の中に入れて離さなくなる。それを避けるために父の耳から3センチぐらいの所で、父にかろうじて何かが聞こえるように距離を保ちながら話しかけた。話しかける言葉はわからないようだったが、一応父は少しだけ反応は続けるのだった。

夜中の2時43分。疲れたので少しだけ横になろうと折りたたみベットに寝転びながら父を見たのが、生きた父を見た最後だった。臨終が近くなると下顎呼吸が始まる。それは見間違うことないガクンガクンと顎の動く呼吸だ、と聞いていたのでまだまだ大丈夫だろうと思ったのだった。

ハッと気がつくと30分近く経っていた。父を見ると動いていない。寝ているのかと近寄ると目も口も開いたまま動いてなかった。信じられなかった。ずっとすぐ横にいたのに、ほんのちょっと離れたその隙に死んでしまうはずがない、と思い父を呼びながら顔を撫でたが反応はない。

誰かを呼びに行った隙に父が生き返るかもしれない、だから今父を一人にしてはいけない、と思いしばらく父を撫でてみた。父の死が近いのはわかっていたが、今であるはずがなかった。

しかし、その考えは間違いだった。

ホームが用意してくれた簡易ベットに、家から
シーツや枕などを運び込んで使った

父はなんで私に黙って死んでしまったのだろう。

2016年6月26日日曜日

そして初七日

まだ信じられない。父がこんなにあっけなく逝くなんて、どうしても信じられない。今日で1週間が過ぎた。まだ1週間。でも、もう1週間。

一番つらい火葬が終わり、その次につらいホームの父の部屋の整理が終わった。姉が忌引きで職場を休める期間中にすませよう、とホームの整理をしてしまったことは良かったのかもしれない。父の死を頭の中で整理し始めたあとだったら、この作業はもっとつらかったと思う。

ホームの父の部屋、ほとんどの物は置いたまま退所した
買ったばかりのパジャマなど、ホームで使ってくれるということ

今はまだ父の死が信じられないし、その事実に向き合うことを避けている、と言うところだろうか。

父の死に目にも会えなかった。部屋に泊まり込んでいたのに、30分うとうととしたその間に父は逝ったのだ。徹夜で腕をさすってあげるつもりだったのに、わざわざその30分を選んで死んでしまうなんて。

看取りについてはこれから整理しながら少しずつ書いていきたい。

今は姉と『あんなにあっと言う間に死んでしまうなんて』『淀屋橋のあんぱんをもう一度食べさせてあげたかったのに』『あの時の姿がいじらしかった』などと言い合っては涙する。生きている時は憎たらしいと思ったこともあった父なのに、今はただただ『かわいい父』になっている。

金曜日の父はまだ文句を言っていたのに
(言葉にはなっていなかった)
今日の(我が家の)哲学:人は死んだあとの方が愛される。



生きているおバカと

2016年6月20日月曜日

撫でる

父の頬を撫でる。額、鼻から耳にかけて、そして唇の周りを撫でる。あ〜、なんか汚いなあ〜、といつも思っていた父の顔を隅々まで撫でる。

ドライアイスに入っている父は、どうしてこんなに愛おしく感じるのだろう。
2016年6月20日午前3時3分

2016年6月19日日曜日

シャツを脱ぐ父

朝9時にホームに行くと、二人のスタッフが父の横で、父が無理やり脱いでしまったシャツをもう一度着せようとして困っていた。なにしろ父はものすごい力で抵抗するのだ。これだけ力があるならまだ大丈夫だろう。

父がシャツを脱ぐのは、何かしらじっとしていられない辛さがあるからなのだろう。ずっと同じ体位をしていることはしんどいものだ。しばらくして落ち着いたところでシャツを着せて見守る。父が落ち着いた頃ホームを出て、食料調達。

息は穏やかだ

そして午後1時にUターン。父は朝より落ち着いている様子だったが、時々目を覚まして辛そうにしている。介護マネージャーから廊下に出て少しお話ししていいですか?と言われる。父が辛そうに見えることを相談すると、息遣いが穏やかなので辛くはないと思う。痛みなどもないはずということ。

ただ高齢なのでいつ突然息を引き取るかわからない、ということだ。今晩は父の横で泊まり込むことにした。姉と一緒に父の体位変換をしてあげたり、目を清浄綿で拭いたり、口を湿らせてあげたり、と少しでも父が楽にならないだろうかとやってみたが、父は時々目を開けてシャツを脱ごうとする。

横に向けると父はいやがる

田端義男の音楽をかけてブラシで髪をといてあげた。父が穏やかになったところで、一旦帰り父の旅立ちの洋服を用意することにした。介護マネージャーさんに、父がホームを出る時は皆で見送ります、と言われて今日8リットル目ぐらいの涙が出る。

父に聞こえているかどうかはわからないが
CDをかける
とにかく痛みや苦しみがなく、穏やかに旅立ってほしい。


2016年6月18日土曜日

おどける父

水木金と父を見ていなかった姉は、今日の父を見て驚いていた。父の状態が一気に低下していたからだ。昨日から一切の食べ物を拒み始めた父は衰弱している。それでも私と一緒にいる間はぼんやりしていたのに、1時間後に姉が来た途端笑いを取ろうとするのにびっくりした。

急におどけ始めたのだ。どうも心臓麻痺を起こして死んでしまった自分、という一連のジェスチャーをしているらしい。私のことはもうわからなくなっているのに、姉のことはよくわかる父。最終的には長女に頼るものかもしれない。


元気だったのが

突然の心臓麻痺

崩れ落ちるところ


そしてこときれた(らしい)

看護師さんと話したいと言うと、若い看護師君が来て父の状態を説明してくれた。その間父は姉に向かって拝むように手を合わせている。何かを謝っているようにも見える。父はまるで死を受け入れる準備ができた、今までありがとうと言っているようだ。

説明の内容は、父がもう自分から食べようとしないこと、水分も100ccしか取れていない、熱があったので抗生物質を点滴で投与したが、父は針を抜いてしまう。入院して拘束して生命維持に必要な栄養点滴を受ければ、1ヶ月ぐらいは延命できるだろう。ただ、その後は今と同じようにまた脱水症状を起こす。本人にとっては苦しい治療だということ。

あるいはホームで看取りすることもできる。その場合父は緩やかに意識が低下していき、安楽な死が訪れるそうだ。月曜日にホームの嘱託医の説明があり、その時点で看取り介護に移行することに同意するなら、確認書に署名する。

拘束し点滴を受け、水分で身体がパンパンにむくみ、痰の吸引を続けながら死を待つよりも、できればホームで穏やかに逝かせてあげたい。救急搬送で入院させないことに同意した。

昨日はスーパーで人の目なんかどうでもいい、と思いながら泣きに泣いたが、ホームで泣いている姿をスタッフに見せるのはなんだかいやだ。それも父の目の前で泣きたくない。

今晩もう一度ホームに行き、父が穏やかに呼吸していることを確認する。その時父の意識がしっかりしていたら、父にいいニュースを伝えたい。

最期まで髪がたくさんあったね

2016年6月17日金曜日

レーズンパン

今回の父の状態は1年半前の状態に似ている。当時の主治医の森先生の診断(昨日のエントリー内)は今の状態にも当てはまるところがある。

ここで意識レベルを上げて食べるようにする、そして体重を増やして元気になる。これがラストチャンスです、と先生に言われた。この時は先生の診断をプリントにしてホームのスタッフに配った。皆で協力して父を回復させてくれたホームの当時の園長さんやスタッフには本当に感謝している。

が、父は今回はもうダメだろうと感じるところが前回と違う。つまり、前回の父はまだまだ生きる力を持っていたのだが、転倒をきっかけに発熱し、負の連鎖で脱水症状が進んだ。今回の父の身体は老衰で食べなくなった。前回の食べないと死ぬ、という状態とは違って、今回は死が近づいてきたので身体が食べるのをやめた、という状態のようだ。認知症も進んでいるので、普段の意識レベルが以前より低下している上、父自身がもう生きる気力がないと言うのも大きな違いだ。あの時はまだまだ回復する父が想像できたが、今回はそれも想像できないほど弱々しい。

ほんの2ヶ月前、4月の時点では父とおしゃべりをしてホームの部屋を出る時、父は私に帰るな、帰るなと騒いでいた。今は父がぼんやりとしている時、ホームのスタッフに声をかけて黙って部屋を出ることにしている。父はそこで騒ぐ気力ももうないようだ。手を振りながら何かの不満を呟いているような時もあるが、そこにはしっかりした意識が伴っているようには思えない。無気力な目で宙を見ている時が多くなった。

痩せて入れ歯も合わなくなってしまった
この夏を越すのはもう無理なんじゃないか、と姉と話している。今日もお昼ご飯を食べるのを介助するためにホームに行ったが、父は2口食べただけだった。ゼリー状にした飲み物も口に入れた途端吐き出してしまう。

ホームの相談員から『看取り』という言葉が出た。看取りの仕方を学んだということだ。超高齢者が老衰で飲食ができなくなった場合、点滴をすることは心臓に負担がかかり、水分も体にたまってしまう。本人が苦しいだけだから、病気を治す場合だけしか点滴はしない。

今日も父は何かが不快らしく、しきりに両手を挙げて文句を言っている。最後までそういう父の性格は残るんだなあ、と見ていると少しイラつくが体のあちこちを調べて不快部分を探してあげる。が、特に何もあるわけではないようだ。それでも洋服や足を直してあげたり、微熱があるのでアイスノンを置いてあげたり、ヨーグルトを飲ませてあげたり。だが、吐き出してしまうし、もう会話も成り立たないので帰ることにした。

東京音頭を一緒に歌うことはできなくなったが、
私が歌ってあげると手だけは動かす父

老衰で死ねる父は幸せだ、92歳なんだし長生きできた、それも住み慣れたホームで看取ってもらえそうだ、と考えるとある意味満足感がある。良かった、これは理想的な最期ではないか。今父が死んでもそれは寿命なんだ。正直日米往復するのも本当に疲れてしまった。

そう考えながらスーパーでお昼ご飯を買って帰ることにした。だが、スーパーのどこを見ても、もうすぐいなくなるかもしれない父が以前よく買って来ていたものしか目に入らない。特に父が夕食のあと毎晩抱えこんで食べていたパンが目に飛び込んで来た。もっとおいしいものを買って食べればいいのに、娘たちに少しでもお金を遺したいという思いの強かった父が食べていたパン。

6個で128円のレーズンパン

このパンの棚の横に立って、いつまでも嗚咽しながら泣いた。

2016年6月16日木曜日

死の準備

父がどのように最期を迎えるべきなのか、ということについてこのところ毎日調べている。何故なら父がほとんど食べなくなってきたからだ。点滴をするべきなのか、それとも胃瘻を勧められるのか。父はこの4年で2度危険な状態に陥った。

2度とももうダメだろうと思われたのが、父は余程丈夫なのだろう。2度とも奇跡的に回復した。さすが戦争をくぐり抜けて生きてきた世代、と感心したものだが、今度こそもうダメだろうとなんとなく感じる。父自身に生きる気力がなくなってきているのがわかるからだ。

過去2度の危険な状態だが、最初は2012年4月の肺炎を患った時。

2012年4月の肺炎のあと父は老健施設に入所した
次が2014年10月の感染症から脱水症状を起こした時。この2014年時の父の主治医森先生の診断はここに詳しく書いている。これを読むと今の父の状態はとても似ているが、父自身の普段の意識レベルは全く違うことがわかる。

2014年11月の父、やはり死の淵から回復した

現在父は37度から38度の熱があり、抗生物質を処方されたが吐き出してしまうことが多い。だから1日一回の点滴で体内に入れている。食事は殆ど摂らない。

今日の父は昼食を8匙ぐらい食べたあと

小さなソフトクリームを半分食べた
医療法人ゆうの森のたんぽぽ先生こと永井医師の『人が自然に亡くなる過程』という記事の中から少し抜粋してみる。

『死も人の大切な営みの一つです。ですから、その時がきたら人の身体は楽に逝けるよう、死の準備を始めるのです。身体はどうすれば楽に逝けるかを知っています。それは、草や木と同じ、枯れるように逝くことです。
 前と同じように食べられなくなったからといって、無理に食べなくてもいいのです。身体は楽にいくために体内の水分をできるだけ減らそうとしていきます。そんな時無理に水分や栄養を入れると、身体に負担をかけることになるます。むくみが出たり腹水がたまったり、痰も多くなってしまうのです。
 死は人の最後の営みです。その時が近づいたら、身体が求めるままにうとうとと眠り、食べたいものを食べたいだけ口にしてください。その穏やかな寝息を聞きながら、家族はお別れの時が近づいていることを静かに覚悟することでしょう。』

つまり、医療で最後まで直すことを追求するのではなく、亡くなるまでどう生きるかを追求して、いつか必ず人間は亡くなるということとしっかり向き合うことが大事なのだ、ということなのだそうだ。

しかし、このまま父を逝かせることができるのか。家族としてはやはりむずかしい。どんな状態でもやっぱり生きていてほしいな、と思ってしまうほど父がいなくなるのはつらい。これから色々な決断をしないといけないのだろう。

癒しが必要だ。

一日中食べ物を待っているところは
アプもアイドルと同じ

火曜日にサンフランシスコを出る私に無関心だったアイドル

誰も役に立たん・・・

2016年6月10日金曜日

弱ってきた父

父があまり食べなくなってきた。例えば昨日食べた量は朝まあまあ、お昼は食べず、栄養補助用の飲み物エンシュアを一旦口に入れたが全部吐き出してしまった。夜は姉が持って行った介護用の食べ物を数口。エンシュアを半分飲み、ソフトクリームを2口食べたということ。

歌を歌ったりじゃんけんには反応し、自分の父親と妻は生きているか、と聞くのもいつものこと。二人とももう亡くなっているが、父はこれからも長生きしたあとあの世で皆に会えるよ、と姉が言うと初めて『もう生きる気力がない。』と言ったらしい。父は長生きできるよ、という言葉に今までは相好を崩して喜んでいたのに、こんなことは初めてだ。38キロ台では体力も落ちてしまっているだろう。

6月下旬に帰る予定だったが、早めに帰った方がいいかもしれない、と姉が言う。2週間後はかなり弱っているかもしれない、と。

昨日は突然サンノゼの家に帰る、と連絡して来た長男に
会うためにサンフランシスコから電車に乗り、
Mountain Viewで途中下車し友人Y子さん宅で
ランチをご馳走になったあと帰宅し、

今朝6:56の電車でサンフランシスコにUターンし、
次男とマリーの夕食の支度をし、

アイドルと遊び、

トイレ用の砂6.5キロをお店で買って抱えて帰り、

11段ゼリーを作り、疲れる
月曜日に歯医者に行ってから帰ることにした。新しいブリッジに替えるために今仮歯が入っているだけなので、ブリッジができる木曜日まで待ちたかったが、その間に父は死んでしまうのではないか、と突然心配になってきた。月曜日に応急処置をしてもらい、翌日の飛行機に乗る。しかし明日帰らなくてもいいのだろうか。火曜日まで大丈夫なのだろうか。

まだ弱々しくても歌が歌えるのだから大丈夫だろう、と思うことにして火曜日のチケットに変更した。仕事から帰ってきた次男とマリーにそのことを伝える。火曜日には次男が空港に連れて行ってくれるそうだが、どうもかなりショックを受けているように見える。毎年おじいちゃんに会うと涙を浮かべていた次男だ。やはりつらいのだろう。



いや、どうもそうではないらしい。よく見ると実際は・・・


2016年6月7日火曜日

適応力

落ち着かない。父の様子が思わしくないようで落ち着かない。食欲が減って体重が38キロ台にまで落ちてしまったようだ。来週辺り日本に行くことも考えている。前回日本から帰ったのは5月2日。今日でやっと5週間たったところだ。

最近は夜中にトイレに目が覚めた時、自分がどの家にいるかわからないことがある。京都にいるのか、サンノゼか、サンフランシスコなのか。しばらく考えてトイレがどこにあるか、やっと思い出す。これが少し怖い。

先週の火曜日我が家に連れて来て預かる前、
アイドルは大好きな次男とくつろいでいた

若い脳だとそんなことはないのではないか。父と同じアルツハイマーを発症する原因になる、アミロイドβとタンパク質が日に日に増えて来ているような気がする。

我が家に1泊

ということで、住宅問題についてはもう少し落ち着いてから書くことにします。

若いとやっぱり適応力が優れているのね