2016年1月4日月曜日

病気が進行する

​母の状態は日に日に悪化した。まず足が痺れる感覚はひどくなる一方で、立つことができなくなった。服用していた劇薬は身体中の神経を麻痺させていくものだった。足の次は腰、そして麻痺はどんどん上がっていく。遂には視神経が侵された。10月末に祖母が母のお見舞いに来てくれたが、母はもう自分の母親の姿をはっきりと見ることもできなかった。

祖母は私にオレンジとブルー糸の混じったセーターを買ってくれたのだが、それを着た私を見て母は『おばあちゃんに着物を買ってもらったの?』と聞いた。母にははっきり見えないのか、とびっくりした。その数日後母は失明した。38歳の母は下半身付随になり、そして失明までしたのだ。母の親兄弟には、母がもうダメかもしれないと連絡した。母の弟が声を押し殺してしゃくりあげていた姿は忘れられない。


発病する少し前の母

原因究明のために激痛を伴う検査が繰り返された。検査手術で足の神経を引っ張られた母は、まるで人体実験をされたよう、と言うのだった。日本全国で母と同じ症状をもつ患者が増え、やっと薬が原因だと結論が出て使用停止されたのは1970年。母は40歳になっていた。

母の入院している病院には同じ症状をもつ患者がたくさんいた。同室のKさんの症状は母のよりも重く、脳まで侵されていたので一日中呟いたり泣いていた。向かいの部屋のOさんは高校教師だったが、母よりは少し軽い症状で、杖をついて歩くことができ、かろうじて視力が少し残されていた。母、Kさん、Oさんの3人が重症だったが、ほかの患者は比較的軽症だった。それでも大腸からの出血が続いたり、免疫力が落ちたり、と皆予後は悪かった。


亡くなる少し前、79歳の母

この頃の母は多くのことが自分でできた。採尿器を使って排尿することもできたし、食事も介助なしで摂ることができた。1日ラジオを聞きながら過ごし、夜は父がベット脇で寝る毎日だった。誰にでも優しく明るい母は、他の入院患者に観音様と呼ばれるようになった。患者が入れ替わり立ち替わり部屋に来て、母に悩み相談をする。入院患者の娘まで部屋にきて母に恋の相談をするのだ。

母が悩み相談に対する答えを持っていたとは思えない。それでも母の病室にはいつも誰かがいて賑やかだった。母は幸せそうだった。


ところで今日父のホームに行く前に歩いた三条大橋脇の
弥次さん喜多さんの銅像
実は今日まで、助さん格さんだと思っていた