朝京都駅で用事があった。家からJR駅まで歩く時でさえ、賑やかな道を通ろうかな、裏道を通ろうかなと迷う。今日は最初の角を曲がるか、それとも2つ目を曲がろうか。
今日は裏道を選択 |
こけこっこでチキンの炭火焼を食べようか、アンデルセンのサンドイッチにするか。
アンデルセンのクラブハウスサンドイッチを選択 |
本屋さんに寄って一本次の電車に乗るか、それとも早めに父のところに行って早く帰るか。
電車を降りたところで、ミスドのコーヒーにするか、マクドナルドのアイスティーにするか。1日になんども決断しないといけない。選択肢があることはいいことなのだろう。迷えるのは贅沢なことなのだ。
マックのアイスティーを選択した |
父は落ち着いていた。夜は興奮することもあるようだが、昼間は比較的穏やかなのでこちらも話していて体力を消耗しない。だから、昼間行くことを選んでしまう。夜行ってあげる方がスタッフも助かるだろうに、自分の体力を消耗することが怖い。消耗し続けて病気になりそうだからだ。
今日の父は話がちゃんと通じる。自分の生年月日、兄弟姉妹の名前、親のこと、小さい時ゴム草履を買ってもらえるのはお金持ちの子だけだったという話もする。1時間ほど話したあと喉が乾いたからもう話はしない、と父は言う。それなら、と自販機の飲み物を買ってきてあげることにした。ここでも迷う。ヤクルトにするか。ポカリスウェットにするか。
やはり父が家にいた時いつも好んで飲んでいたヤクルトにしてあげよう。おいしいおいしいと飲んだあと、父が歌う。
父が昔から好きだったヤクルトを選択 |
赤いそ〜て〜つ〜ううの〜、実も熟れ〜るう頃〜とご機嫌だ。最後にタンタカタンのタンタン、も入る。
こうして父は少しずつ朽ちて行くのだろう。家族以外にほとんど話す人もいず、妻にも先立たれ、もうすぐ記憶は消えてしまい、父は父でなくなってしまうのだ。悲しいことだが、人は生まれてきて年をとり、そして死んでいくのだ。父を見ていると、人間がどんな風に人生の終盤に向かっていくのかはっきりと感じられる。
1時50分の電車に乗るので、そろそろ帰るよ、と声をかけた私に父が言う。「充分時間に余裕を持って行きなさいよ。焦ると転ぶよ。時間は充分ある?」と。こういうことを言われると以前はイライラしたものだが、今は聞き流せる。これが父なのだ。
しかし、最後に付け加えた父の言葉、それは『なんぼトシでも気をつけなさいよ。』だった。父のこの言葉・・・
他に選択肢はなかったんか〜!! |