2014年6月29日日曜日

母からのメッセージ

斎場には行かないつもりだった。



母を荼毘に付す。



そんな事実を受け入れるのは無理だ。



目の前で母を火葬にしてしまう。



余りのショックで立っていることさえできないだろう。



だから父と二人で家に残ることを決めていた。




姉は『大丈夫、私一人で行くから』と言ってくれた。



父が行けないのは仕方ないことだろう。



お葬式も家族だけでした。



3人で介護してきたのだ。



3人だけでお別れしたかった。


お天気のいい日、母をよく
縁側で日光浴させてあげた



火葬の前夜、やはり明日は姉と二人で斎場に行こうと決めた。



お茶目な母のことだ。



母の明るさで我が家はいつも笑いに満ちていたのだ。



もしかしたら、最後に何かいたずらをするかもしれないではないか。



確かめたくなった。





母のお棺が車に運び込まれる時が来た。



父が黒いスーツとネクタイ姿で玄関に出て来た。



そして、お棺に向かって最敬礼をした。



それが、42年間介護し続けて来た母との別れだった。




2010年の夏は酷暑だった。



私は日本で体調を崩し7月末にサンノゼに帰って来たが、父と姉は38度が続く京都で母を介護した。



母にはいつも誰かがついていないといけない。



1分も母を一人にすることはできないのだ。



夜も15分おきに起きないといけないことが多い、過酷な介護の日々。



姉は思った。



『この夏誰かが死ぬ。』





母が荼毘に付された日は9月27日。



やっと涼しくなった日だった。



母と最後のお別れをしたあと、斎場の待合室で姉と二人、外の木々を見ながら待った。



木々が葉ずれの音を立てていた。



サラサラ、サラサラ、サラサラ。




その音を聞いていると穏やかな気持ちになって来た。



斎場で母を待つ間苦しくてたまらないだろうな、と思っていたのに。



木々を見ているうちに、母の死は仕方なかったのかもしれない、と受け入れられるようになった。



小さな葬儀屋さんに頼んだお葬式だった。



準備ができました、と葬儀屋のJさんが呼びに来てくれた。



いよいよ、母と対面するのだ。




母は黒い鉄の板の上にいた。



母のことだ。



何か楽しい気分にさせてくれるに違いない。



母の顎と歯はしっかり残っていて、まるでアカンベーをしているようだ。



姉とその顔を見て泣きながら笑った。



やっぱりなあ、まるで笑うてるやん。





母の骨を拾う。



その時突然目の中に、一つだけ色の違う小さな骨が飛び込んで来た。


薄いブルーグレーのような色だ。



とてもかわいい形をしている。



よく見るとそれは足袋の形をしていた。




Jさんが「あっ!」と声を出した。



「これは観音様の足袋と言いまして、成仏された時にこの骨が残ると言われています。お母さまはこの足袋をはいて、今旅立たれるんですね。」と言う。



優しいJさんが家族を慰めるために、その場で作った話なのかもしれない。



でも、嬉しかった。





38歳の時に薬害で視力を失い下半身不随になった母。



最後の10年間は舌の麻痺のためしゃべることもできず、右手だけがかろうじて少し動かせた母。


母のために作ってもらった木の車椅子
母は1年も使うことなく逝ってしまった




『ふふふ、私、やっと歩けるのよ。』という、母からの最後のメッセージだったのかもしれない。