2014年5月5日月曜日

しばしの別れ

明日姉と3人で朝10時の新幹線で東京に移動する。だから今日中に片付けをすませたかったが、全部は終えられなかった。朝、ゴミ処理場に車いっぱいのゴミ130㌔を捨てに行く。


リビングルームはかなりきれいになったが、まだまだたくさんのゴミがある。それでも去年に比べればゴミは10分の1以下だ。去年満杯だった地下室も今は300㌔ぐらいのゴミがあるだけ。去年までに捨てたのは4㌧ぐらいだろうか。もっとあったかもしれない。

それにしても父が自分の物を捨てられたのももうわからないだろう、とゴミを捨てるのは悲しい。戦争を体験した父が物を捨てられない気持ちはよくわかる。こんなものまで捨てられなかったのか、とつまらない物を見てはかわいそうになる。

この部屋が去年までは
満杯状態だった
母は下半身が完全に麻痺していたので、寝ていても足が外側に寝てしまう。それをつま先がまっすぐ上を向くようにするために、砂袋を父が作ってふくらはぎの両側に置いていた。

母が足を立てたいと言う時は毛布を取り払い、その砂袋をはずし、足を立ててあげていた。放っておくとその足がずるずると伸びてしまうので、砂袋をブレーキ代わりにして足先に置いた。一日に何度も足を立て、10分後には元のように伸ばし、そこに砂袋を両横から置いて支えてあげたり、と42年間の介護の間数十万回触れた砂袋だった。

夫がそれを見て笑う。父がエクササイズ用にウェイトを作っていたのか、と思ったようだ。その笑い顔を見てムッとする。何もわからないくせに、とついつい思うのだ。介護をしたこともないくせに、といういつもの被害者意識からの腹立ちパターンだ。本当は毎年日本に来て朝から晩まで片付けをしてくれている夫に感謝するべきなのに。

お昼ご飯だけは食べに行こう、と伊勢丹の10階にある『こけこっこ』に行く。このレストランからは京都が一望に見えるはずなのだが、あいにく今日は雨で殆ど見えない。かすかに一昨日見た清水寺の舞台が見えたが。

大根サラダ650円
お天気のいい日は五山まで見える
スーツケースを2つ成田空港に送り、夕方父のホームに行くと父は穏やかだった。スタッフが紙とペンを持って来る。明日は父の所に姉も私も行けないので、一筆書いておいてください、ということだ。もし、父が不穏な状態になり、娘を呼べということになった時のためらしい。明日は東京に行っているから、誰も来れない、わいわい広場にも来ません、と書いておいた。

お薦めは炭火焼チキン丼セット972円
父に明日帰るよと言うと悲しがる。夫に今度はいつ来るのか、と聞いたりしている。今日帰る時は、余り帰る帰ると言わずに黙って去ってほしい、別れを告げられると悲しいから、などと言っている。今日は孫のことも覚えているし、夫の名前も覚えている。涼しい日だから頭が少しクリアなのかもしれない。

ふと思い出して『そういえば造船所時代の年金はどうなった?』と言う。実はこの年金のことは間違いでした、という知らせが年金機構から数ヶ月前に来ていたのだ。書類を提出したあと、姉が仕事を休んで年金機構事務所に行ったのに。父にどうしてそのことが言えようか。父の今の唯一の楽しみなのだ。

とにかく来月にはまた京都に帰って来る。奇数の月には日本からアメリカ、偶数の月にはアメリカから日本に移動する、と話していると、父の方から「ほな、もう今日は帰りなさい。」と言う。


毎日父のことでうんざりするくせに、別れの時は本当に悲しくなる。次回日本に来た時、父はもう私の顔を見てもわからないかもしれない。が、仕方ない。しばしの別れだ。

これともしばしの別れ。

タスマニアデビル