姉からLINEメッセージが来た。
「今◯◯◯。(◯部分は次回ブログに書きます)
ここに両親のお墓を買おうかな、どう思う?」
母が死んで14年、父、8年。
粉骨にしてもらったあと、実家に置き朝晩両親に挨拶してお供えをしていた。
そろそろ自分がいつ死ぬかわからない年齢になったのだから、息子たちに祖父母の遺灰を遺しても困るだろう。
お墓の用意をすることにした。
京都府で樹木葬をしてくれるところはこのサイトによれば31ヶ所ある。
私達は京都市内に限って探し、最終的にはある場所に決めた。
両親の遺灰を埋葬する場所、その隣にもう一つ空きがある。
隣同士の場所はここが最後。
それぞれ1人か2人ずつで入れる。
その場合金額は違うが、そう大した差ではない。
不思議だ。
私は5月に京都に滞在する時、まだ行ったことのないここに行ってみようと思っていたのだ。
両親が導いていたのかもしれない。
あんたらも、もうええ加減トシやで、早うお墓を考えたら?
いや、両親は、自分たちの墓はいらない、ゴールデンゲートブリッジの下にでも散骨してくれればいい、そう言っていた。
ゴールデンゲートブリッジじゃなくてもどこでてもいい、死んだあとのことなんか気にしない、と。
今や姉や私も墓のことを考える年齢になってしまった。
私の遺灰は、半分はアメリカに遺してもいいし、それについては家族が決めてくれればいい(夫は墓は一切いらない、と言っている)。
姉は、両親の遺灰を収める場所の隣に、自分のも買うことにした。
4人のうちの最後の一人がそこに入る33年後に、4人は敷地内の合同墓地に移る。
樹木葬、望むところだ。
墓は自分のためのものではなく、残された家族のものだ。
息子たちがいつか、私と話したいと思った時、何らかの「親がいる場所」があるのもいいかもしれない。
墓じまいはさせたくないし、私も自分の墓は要らないと思っていたが、銀杏の木の下の、墓石もない墓ぐらいならいいだろう。
アメリカのお墓は高価すぎる、だから、「遺灰をその辺に置いてたら、どこかに行ってしもた〜」と息子が言っている姿が目に見えるほど、彼らはあてにならない。
そのうち、灰に猫がオシッコを引っ掛けるかもしれない。
とりあえず京都に一つ、私が土に還る場所をゲットしておこうではないか。